「クトゥルフ神話」と聞くと、巨大なタコのような怪物や、正気を失う人間を思い浮かべる人も多いだろう。
では、クトゥルフ神話はギリシャ神話や日本神話のように、昔から信じられてきた神話なのだろうか?
実は違う。
クトゥルフ神話は、20世紀のアメリカ人作家H・P・ラヴクラフトを中心に作られた架空の神話体系である。しかもラヴクラフト一人が設定を完成させたわけではない。複数の作家が同じ怪物、地名、魔導書などを作品の中で使い、巨大な世界観へ成長していった。
私がクトゥルフ神話を面白いと思う最大の理由もここにある。
普通の神話では、人間と神の関係が重要になる。しかしクトゥルフ神話では、人間など宇宙全体から見ればほとんど価値がない。
神々は人間を救わない。
そもそも、人間の存在に興味すらない。
この冷たさこそ、クトゥルフ神話最大の特徴だ。
クトゥルフ神話とは?
クトゥルフ神話とは、アメリカの作家H・P・ラヴクラフトと、その周囲の作家たちの作品から生まれた架空の神話体系である。
ラヴクラフトは1890年にアメリカのロードアイランド州プロヴィデンスで生まれ、1937年に亡くなった。
彼は1920年代から1930年代にかけて『Weird Tales』などの雑誌で怪奇小説を発表している。現在、ブラウン大学にはラヴクラフトの原稿や手紙などが大量に保存されている。
一次資料については、Brown University Library「H.P. Lovecraft Collection」で確認できる。
本当の宗教や神話ではない
ここは最初に押さえておきたい。
クトゥルフ神話は、古代人が本当に信仰していた宗教ではない。
ラヴクラフトたちが小説のために作ったフィクションだ。
つまり、
「クトゥルフという神を昔の人が本当に信仰していた」
という話ではない。
ただし、小説の中では古代宗教、秘密結社、失われた文明、禁断の書物などが実在するかのように書かれている。
そのため、初めて読むと「これ、本当に元ネタがあるのでは?」と思ってしまう。
この現実とフィクションの境界をぼかす作り方が非常にうまい。
クトゥルフ神話を作ったH・P・ラヴクラフトとは?
ラヴクラフトはホラー小説、怪奇小説、SFに大きな影響を与えた作家である。
しかし、生前から世界的な大作家だったわけではない。
彼は雑誌を中心に作品を書きながら、同時に多くの作家と手紙を交換していた。
ロバート・ブロック、オーガスト・ダーレス、ロバート・E・ハワード、クラーク・アシュトン・スミスなど、後に有名になる作家とも交流している。ブラウン大学の資料でも、こうした作家たちが手紙や原稿を通して交流していたことが確認できる。
ここがクトゥルフ神話を理解するうえでかなり重要だ。
ラヴクラフトだけで作った世界ではない
ラヴクラフトと周囲の作家たちは、お互いが作った架空の地名、書物、怪物などを作品の中で使った。
たとえば、ある作家が作った名前を別の作家が自分の小説に登場させる。
現代風にいえば「世界観を共有する」という感覚に近い。
その結果、
クトゥルフ
ヨグ=ソトース
アザトース
ネクロノミコン
アーカム
ミスカトニック大学
などの存在が、別々の作品をまたいで登場するようになった。
SF百科事典でも、現在のクトゥルフ神話はラヴクラフトだけではなく、ロバート・ブロック、オーガスト・ダーレス、ロバート・E・ハワード、クラーク・アシュトン・スミスなどによって発展した「共有世界」と説明されている。
実はラヴクラフト本人は「クトゥルフ神話」と呼んでいない
意外だが、これはかなり重要なポイントである。
ラヴクラフト本人は、自分の作品群を「クトゥルフ神話」と呼んでいなかった。
「Cthulhu Mythos」という名称は、ラヴクラフトの死後、作家オーガスト・ダーレスによって広められたものとされている。ラヴクラフト研究資料でも、この名称を本人が使用していなかったことが指摘されている。
だから厳密に考えると、
「ラヴクラフトがクトゥルフ神話という巨大設定集を作った」
という説明は少し違う。
ラヴクラフトが複数の作品で共通する怪物や書物、土地などを登場させ、それを後の作家たちが整理・拡張した。
こちらのほうが実態に近い。
クトゥルフ神話は何が怖いのか?
クトゥルフ神話には大量の怪物が登場する。
巨大な怪物。
宇宙から来た生命体。
人間では理解できない神のような存在。
しかし、私は怪物そのものより、この世界の考え方のほうが怖いと思っている。
人間は宇宙の主人公ではない
普通の物語では、人間が世界の中心にいる。
神が人間を救ったり、悪魔が人間を誘惑したりする。
どちらにしても、人間は重要な存在だ。
クトゥルフ神話は違う。
宇宙には人間よりはるか昔から巨大な存在がいて、人類はその一部を偶然知ってしまっただけである。
ラヴクラフト自身も、宇宙全体から見れば人間の価値観や善悪などには大きな意味がない、という考えを手紙の中で示している。
人間には理解できない。
戦っても勝てない。
そして相手はこちらに興味すらない。
これが「コズミック・ホラー」と呼ばれる恐怖につながっている。
幽霊が出てくるより、ある意味こちらのほうがずっと救いがない。
クトゥルフとは何者?
クトゥルフ神話の名前になっているため、「クトゥルフが世界で一番偉い神」と思われがちだ。
実際にはそうではない。
海底都市ルルイエに眠る巨大な存在
クトゥルフが有名になった作品が、ラヴクラフトの『The Call of Cthulhu(クトゥルフの呼び声)』である。
この作品は1928年2月の『Weird Tales』に掲載された。
原文はThe H.P. Lovecraft Archive「The Call of Cthulhu」でも確認できる。
作中ではクトゥルフは、太古から存在する強大な存在として描かれる。
海底に沈んだ都市ルルイエで眠っており、その影響が人間の夢や精神にまで及んでいく。
見た目も特徴的だ。
巨大な体。
翼。
そして頭部にはタコを思わせる触手がある。
現在では「クトゥルフ=タコ顔の巨大怪物」というイメージが定着しているが、本質的に怖いのは外見ではない。
こんな存在が、人類の知らないところでずっと眠っていた。
その事実である。
クトゥルフ神話に登場する代表的な神・存在
クトゥルフ以外にも有名な存在は多い。
ただし注意したいのは、クトゥルフ神話には聖書のような一冊の正式設定集が存在しないことだ。
作家や作品によって分類や設定が違う場合もある。
ゲームの攻略本のように「この神はレベル100、この神は120」と考えると、おそらく深淵の向こう側から鼻で笑われる。
アザトース
宇宙の中心に存在するとされる非常に強大な存在。
クトゥルフ神話でも特に上位の存在として扱われることが多い。
人間的な知性や善悪とは無関係で、理解そのものが難しい存在として描かれる。
ヨグ=ソトース
時間や空間と深く関係する存在。
過去、現在、未来や異なる空間に関係する設定で登場することが多い。
ラヴクラフト作品の中でも非常に重要な存在である。
ニャルラトホテプ
クトゥルフ神話の中ではかなり特殊だ。
人間とほとんど接触しない存在が多い中、ニャルラトホテプは人間社会へ積極的に関わる。
さまざまな姿を取り、人間をだましたり、混乱させたりする。
人間に興味がない神々より、人間に興味津々のニャルラトホテプのほうが場合によっては迷惑である。
シュブ=ニグラス
生命や繁殖を連想させる存在として登場する。
作品によって扱いに差が大きく、後世のクトゥルフ神話作品によって設定がかなり広げられた存在でもある。
ネクロノミコンとは?
クトゥルフ神話を語るなら、ネクロノミコンも外せない。
ネクロノミコンは、ラヴクラフトが作った架空の魔導書である。
作中では、普通の人間が知るべきではない宇宙や怪物について記録されている危険な本として扱われる。
あまりに設定が細かいため、
「ネクロノミコンという本は本当に存在するのでは?」
という話まで生まれた。
しかし、ラヴクラフトが創作した架空の書物である。
ブラウン大学にはラヴクラフト自身が書いた「History of the Necronomicon」の原稿も保存されている。
架空の本なのに現実の図書館に原稿が保管されている。
この妙な現実感もクトゥルフ神話らしい。
アーカムやインスマスも実在しない
クトゥルフ神話では、実在しそうな場所も大量に登場する。
特に有名なのがアメリカ・マサチューセッツ州周辺をモデルにした架空の地域だ。
アーカム
クトゥルフ神話を代表する架空の町。
怪事件や奇妙な研究に関係する場所として頻繁に登場する。
ミスカトニック大学
アーカムに存在する架空の大学。
クトゥルフ神話では非常に重要な施設で、研究者や学者が怪事件に巻き込まれる。
インスマス
海沿いにある不気味な架空の町。
ラヴクラフトの『The Shadow over Innsmouth』で特に有名になった。
こうした「本当にアメリカのどこかにありそうな町」を使うことで、異常な出来事に妙な現実味が生まれる。
私はここもラヴクラフト作品の強さだと思う。
最初から異世界なら怪物が出ても驚かない。
普通の町の地下から何かが出てくるから怖いのだ。
クトゥルフ神話とクトゥルフ神話TRPGは同じもの?
日本で「クトゥルフ」という言葉を知った人の中には、TRPGから入った人も多いだろう。
ただし、
クトゥルフ神話=クトゥルフ神話TRPG
ではない。
クトゥルフ神話が小説を中心として生まれた世界観であり、それを利用して作られたゲームの一つが『Call of Cthulhu』である。
Chaosiumによる『Call of Cthulhu』TRPGは1981年に初めて発売された。現在もシリーズが続いている。
公式情報はChaosium「Call of Cthulhu Rules」で確認できる。
SAN値で有名になった「正気」の考え方
クトゥルフ神話TRPGでは、怪物や宇宙の真実を知ることで精神が傷ついていく。
そのため「Sanity(正気度)」というシステムが重要になる。
単にモンスターを倒して経験値を集めるゲームとは方向性が違う。
知識を得るほど危険になる。
真実へ近づくほど正気から遠ざかる。
これはクトゥルフ神話の世界観とかなり相性がいい。
クトゥルフ神話を初めて読むなら何がおすすめ?
最初から設定を全部覚える必要はない。
むしろ覚えようとすると名前の多さでこちらのSAN値が先に削られる。
最初はラヴクラフトの代表作を数本読めば十分だ。
『クトゥルフの呼び声』
クトゥルフ神話を知るなら、やはり代表作。
世界各地で起きた奇妙な事件が、少しずつ一つにつながっていく。
「巨大な何かが人類の知らないところに存在する」というクトゥルフ神話らしい恐怖を感じやすい。
『インスマスの影』
閉鎖的な港町インスマスを訪れた主人公が、町の秘密に近づいていく物語。
クトゥルフ神話の中でも比較的ストーリーを追いやすく、個人的には初心者にもおすすめしやすい。
『狂気の山脈にて』
南極探検によって、人類の歴史そのものを変えるような発見をしてしまう話。
クトゥルフ神話の「人類よりはるか昔から何かが地球にいた」という世界観が強く出ている。
ラヴクラフトの宇宙的恐怖を知るなら外せない作品だ。
まとめ|クトゥルフ神話とは「人間が宇宙の真実を知ってしまう物語」
クトゥルフ神話とは、昔から存在する宗教ではない。
H・P・ラヴクラフトと、その周囲の作家たちの作品から成長した架空の神話体系である。
クトゥルフ、アザトース、ヨグ=ソトース、ニャルラトホテプ。
ネクロノミコン。
アーカムやインスマス。
こうした名前だけを見ると、巨大怪物や魔法を楽しむダークファンタジーにも見える。
しかし、その奥にある考え方はもっと冷たい。
人類は宇宙の中心ではない。
人間より古く、強大で、理解できない存在がいる。
そして宇宙は、人間が生きようが滅びようが気にしない。
ラヴクラフトの恐怖は「怪物に襲われること」だけではない。
自分たちが世界の主人公ではなかったと知ってしまうこと。
クトゥルフ神話ってどんな神話なのかと聞かれたら、私はこれが一番わかりやすい答えだと思っている。
暗い海の底でクトゥルフが眠っていることより、人類など気にも留めないほど巨大な宇宙が、その外側に広がっている。
そこまで想像した瞬間から、クトゥルフ神話は単なる「タコ頭の怪物の話」ではなくなるのだ。

コメント