ヤマハってプールまで作ってるの!?ヤマハってすごいな。

こんにちはTac^^です。

ヤマハって一言にいっても実は二つあるんです。

大きく分けて

音楽をメインでやっている「ヤマハ株式会社」(以下:ヤマハ)

二輪自動車を扱っている「ヤマハ発動機株式会社」(以下:ヤマハ発動機)

ただ、もともとヤマハ発動機はヤマハから二輪部門が独立したものなので

基本は同じといっていいでしょう。

今日はそんなヤマハという会社について

 

目次

ロゴについて

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ちなみに

上がヤマハ発動機、

下がヤマハです。

元々は下のヤマハ(音叉を表してますね)から独立の際にそのロゴを使ったようですね。

ただ、よく見ると違うんです。

ヤマハ発動機の方は枠に音叉の絵が重なってますよね。

実は、バイクのタイヤを表しているんですね。

なんか、元々のロゴを生かしつつちゃんとその会社を表しているってセンスありません?

僕はこのロゴ好きです。

沿革

1887年(明治20年)

山葉寅楠が浜松尋常小学校(現:元城小学校)でオルガンを修理。

1888年(明治21年)

浜松で日本最初の本格的オルガンの製造に成功。

1889年(明治22年)

合資会社山葉風琴製造所を設立(「風琴」ふうきん、というのはオルガンのこと)

1891年(明治24年)

出資引き揚げにより一旦は会社を解散するが、河合喜三郎と共同で山葉楽器製造所を設立した。

1897年(明治30年)10月

日本楽器製造株式会社に改組した。当時の資本金は10万円であった。

1916年(大正5年)

寅楠の死後は2代目社長に天野千代丸が就任し、ピアノ製造は一族の山葉直吉らがあたった。

1921年(大正10年)

陸軍の要請により、軍用航空機用の木製プロペラの製造

1931年金属製プロペラの製造を開始し、プロペラの実験用からエンジンも製作した。

これは後のヤマハ発動機に至る事業となる。

同年8月

西川楽器(西川オルガン)を合併。

西川オルガンは1890年(明治23年)の第3回内国勧業博覧会でもヤマハに次ぐ2等賞を得るなど評価が高く、合併後も「Nishikawa」のブランドで製造が続けられていた。この1921年(大正10年)には家具の製作が開始されている。

1926年4月

大規模な労働争議が発生。

社外の労働運動家が多く加わり105日間のストライキが実行され、会社役員宅が爆破されるなどの暴力的な騒動にまで至ってしまう。

このことが原因となり翌1927年(昭和2年)には天野が辞任。

後任に住友電線の取締役であった川上嘉市が3代目社長に就任した。

1930年(昭和5年)

釧路工場を大日本人造肥料へ売却し負債を整理し、

嘉市は住友財閥の支援も受け、経営の合理化と技術革新でヤマハの再建を果たしたと評されるが、

その後に続く「非オーナーでありながら経営者の世襲」という問題を生じた川上親子3代の経営の始まりでもあった。

1935年(昭和10年)

ヤマハ初の電気楽器「マグナオルガン」を製作。

1937年(昭和12年)

管楽器製造をしていた日本管楽器株式会社(ニッカン)の経営を援助し、嘉市が監査役となるなど実質的にグループ化、総合楽器製造企業へ成長しつつあった。

1938年(昭和13年)

陸軍管理下の軍需工場となり、金属プロペラの生産を行い大工場になる。

1944年(昭和19年)11月

楽器類の生産は完全休止。

1945年7月

イギリスの戦艦キング・ジョージ5世の艦砲射撃で浜松の工場が全壊するなどの被害を受け終戦を迎えた。

1945年(昭和20年)10月

ハーモニカ、シロフォンの製造を再開。

1947年(昭和22年)4月

ピアノ製造の再開。

1949年(昭和24年)5月

東京証券取引所第1部に上場。

1950年(昭和25年)

嘉市の息子である川上源一が38歳で第4代社長に就任。

源一は伝統の楽器事業を充実させるとともに、技術の応用による多角化、

また戦後の経済復興とともに音楽をはじめとする生活に彩りを加えるという分野での事業の多角化を図った。

源一のかけ声は「日本にエピキュロスを」であったという。

1959年(昭和34年)12月

エレクトーンD-1を開発、同時にヤマハオルガン教室(現在のヤマハ音楽教室)を開設。
またピアノ、エレクトーンの販売のために割賦会社・ヤマハクレジットを設立。

1965年(昭和40年)

管楽器、打楽器の製造を開始。

1966年(昭和41年)

財団法人ヤマハ音楽振興会を発足。

1967年(昭和42年)

第1回全日本LMC(ライトミュージックコンテスト)を開催。

1969年(昭和44年)11月

第1回作曲コンクール(後のポプコン/POPCON)を開催するなど、
手軽に購入できる楽器と音楽教室、コンクール開催で『趣味としての音楽演奏』の普及を図った。

1970年(昭和45年)

日本管楽器を吸収合併するなど、1960年代には、グランドピアノから管楽器、打楽器、弦楽器まで幅広く製造する総合楽器メーカーとしての基礎を固めた。

一方、楽器以外の分野では、

1954年(昭和29年)

ヤマハ・YA-1(愛称は赤トンボ)の製造を開始。

1955年(昭和30年)7月

二輪車部門を独立しヤマハ発動機株式会社とした。

初のスポーツ用品となるアーチェリーは1959年(昭和34年)に開発している。

このアーチェリーの素材であるFRP(繊維強化プラスチック)の開発は、

1961年(昭和36年)のスキー板、住宅用浴槽の発売へとつながった。

1975年(昭和50年)には高級家具の製造を開始している。

1964年(昭和39年)に鳥羽国際ホテルをオープンしレクリエーション(リゾート)事業に参入。

以降

1967年(昭和42年)に三重県志摩市に合歓の郷、

1974年(昭和49年)に静岡県掛川市につま恋、

1978年(昭和53年)に袋井市に大正モダン風の葛城北の丸、

1979年(昭和54年)に沖縄県竹富町小浜島にはいむるぶしをオープンした。

1977年(昭和52年)1月

『足元の明るいうちにグッドバイ』の名台詞を残し第5代社長を河島博に譲るが、

意見の対立から僅か3年後の1980年(昭和55年)6月には第6代社長に復帰している。

 

エレクトーンの核となるトランジスタ(当初は日本電気(現:ルネサスエレクトロニクス)との共同開発)で得たノウハウから電子技術が発展し、1971年(昭和46年)に初のIC生産を開始、1970年代から1980年代前半にかけて、音楽ミキサーやエレクトーン、電子ピアノ等の電子楽器の開発を進めた。

1981年(昭和56年)

ローランドなどの他5社と共同でMIDI規格をまとめる。

1983年(昭和58年)5月

発売されたデジタルシンセサイザーDX7はアイドル自身が演奏する「バンドブーム」と重なりヒット商品となった。

1983年(昭和58年)10月

MSX規格のパソコンを発売。

1990年(平成2年)

MSXturboR規格ではヤマハの開発したVDPやFM音源が採用されるなど、パーソナルコンピュータの分野で「音源チップのヤマハ」という地位を獲得した。

電子部品の分野においても

1984年(昭和59年)にはハードディスクに用いる薄膜磁気ヘッドの開発を開始。

ハードディスクの普及にともない急成長していった。

てな具合でヤマハってすごい

一番の天気はやっぱり戦争が大きかったのではないかなと思います。

で、今回この記事を書くきっかけになったのがヤマハ発動機の製品です。

ヤマハ発動機製品一覧

  • オートバイ
  • マリン製品(モーターボート・漁船・マリンエンジン・船外機・水上オートバイ(マリンジェット)・エンジン)
  • スノーモビル
  • バギー(ATV) / レーシングカート(KART)
  • 汎用エンジン
    • 自動車用エンジン(ボルボ・XC90や1G-GE、3S-GE、2ZZ-GE、1LR-GUE- トヨタ自動車に供給)
  • 電動乗用機類(カート・車椅子)
    • 電動アシスト自転車「PAS」(パス) – 車体の開発はブリヂストンサイクルと共同で行っている。
  • 発電機
  • 産業用ロボット
  • 表面実装機(クリームはんだ印刷機・ディスペンサ・チップマウンター)
  • 産業用無人ヘリコプター(ヤンマーヘリサービスにもOEMとして供給している)
  • ガスヒートポンプエアコン(GHP) – 2000年にて製造を止め、市場撤退。主に筆頭株主であるヤマハがピアノ等の楽器販売のルートの関係で学校関係への納入が多い。
  • プール – FRP製のプールを販売をしている。国内プールのシェアは断トツ。
  • 除雪機「スノーメイト」 – 「青い除雪機」として知られる。近年ではごく一部の機種がヤンマーにもOEMとして供給している。
  • 浄水器
  • 乗用ゴルフカート

プールとかもやってるとかすごくない?

東京五輪でもプール作りに関わるんじゃない。

なんたってシェアナンバーワンですからね。

 

 

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