相撲がなぜ女人禁制なのか?その由来は?

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前日4日に行われた大相撲の京都・舞鶴市巡業で、土俵上であいさつをしていた多々見良三市長(67)が倒れた際、救命処置を施した女性が土俵から下りるよう、場内放送で促された問題で5日、東京・両国国技館内にある日本相撲協会を、同巡業を担当した巡業部の松ヶ根親方(43=元前頭玉力道)が訪れ経過報告した。

女人禁制について調べて見た。

目次

大相撲女人禁制

大相撲でも土俵は「神聖」なものとされ、「女人禁制」とされてきた。だが、古文書を紐解くと、女性と相撲は深い関わりがあるようだ。

日本史上初めて文献に「相撲」が登場したのは『日本書紀』の雄略天皇期の部分とされ、そこにはこう書かれている。

【原文】
(十二年)秋九月、木工韋那部眞根、以石爲質、揮斧斲材、終日斲之、不誤傷刃。天皇、遊詣其所而怪問曰「恆不誤中石耶」眞根答曰「竟不誤矣」
乃喚集采女、使脱衣裙而著犢鼻、露所相撲。於是眞根、暫停、仰視而斲、不覺手誤傷刃。

【口語訳】
(雄略天皇12年の)秋の9月、木工職人の韋那部眞根(いなべのまね)が、石を台にして斧で木材を削っていた。一日中削っても、間違って斧を石の台にぶつけて刃をつぶす事はなかった。天皇がやってきて不思議に思って聞いた。「いつも間違って石にぶつける事はないのか」と眞根は答えた。「決して、誤ってぶつけることはありません」。

そこで天皇は采女(うねめ。宮中の女官)を集め、着物を脱がせ、褌を締めさせ、みんなの前で相撲をとらせた。眞根は少し手を休め、それを横目で見ながら木材を削った。しかし相撲に気を取られて、間違って斧を台座の石にぶつけて、傷つけてしまった。

女人禁制の由来

日本における霊山などへの女人禁制は、修験道の伝統に基づくとされているものが多い。

修験道は仏教(主に密教)に、日本の古来の神道や大陸由来の道教などが習合して成立したものであるため、女性の入山を禁止し始めた理由を明確に知ることは難しい。

仏教の戒律に由来する理由

本来の仏教には、ある場所を結界して、女性の立ち入りを禁止する戒律は存在しない。

道元の『正法眼蔵』にも、日本仏教の女人結界を「日本国にひとつのわらひごとあり」と批判している箇所があり、法然や親鸞なども女人結界には批判的であった。

ただし仏教は、性欲を含む人間の欲望を煩悩とみなし、智慧をもって煩悩を制御する理想を掲げている。そのため出家者の戒律には、性行為の禁止(不淫戒)、自慰行為の禁止(故出精戒)、異性と接触することの禁止(男性の僧侶にとっては触女人戒)、猥褻な言葉を使うことの禁止(麁語戒)、供養として性交を迫ることの禁止(嘆身索供養戒)、異性と二人きりになることを禁止(屏所不定戒)、異性と二人でいる時に関係を疑われる行動することを禁止(露処不定戒)など、性欲を刺激する可能性のある行為に関しては厳しい制限がある。

また修験者は、半僧半俗の修行者であるが、その場合でも、修行中は少なくとも不淫戒を守る必要がある(八斎戒の一つ)。

ちなみに在家信徒も、淫らな性行為は不邪淫戒として禁じられている(五戒の一つ)。

また在家者も坐禅や念仏などの修行に打ち込む期間だけは不淫戒を守ることが薦められる。

それらの目的を達成するために、修験道では、男性の修行場から女性を排除したものと思われる。逆に女性出家者が入る尼寺は(女性出家者を性暴力などの被害から守る理由で)もともと僧寺(男性出家者の施設)に付属する施設と規定されており、そのため男性を厳格には排除しづらかった。

また仏教では本来、破戒僧が自分の愛人を出家させて身辺に置くことを防ぐため、仏陀を除く出家者は異性の出家者を弟子として得度することは禁じられている。(僧を得度できるのは僧のみ。尼を得度できるのは尼のみ)

日本仏教の黎明期に善信尼ら女性出家者はいた。

その後、戒壇の設置に朝廷の許可が必要であった奈良時代以降、鎌倉時代くらいまで、戒壇の設置を許された東大寺や延暦寺などの戒壇が全て男性僧侶を対象としており、女性(尼)の授戒得度が困難であった点との関連も考えられている。

ただ仏教の戒律は、上記のように出家者、修行者、在家で求められる戒律がそれぞれ異なり、戒律の内容や解釈、厳格さも各宗派で異同がある。そのため「男子禁制」の尼寺や、山岳部にあっても女人禁制が取られていない寺院も存在する。

神道の血穢による理由

神道においては、生物の身体から離れて、流出した血液は血の穢れとみなされる。(これは身体の一部が身体から分離したものをケガレとみなす考え方で、頭髪や爪、排泄物などにも同様な観念がみられる、また他の宗教や神話にも類似した観念が存在する)

そのため、生理中の女性や産褥中の女性が、神聖とされる場所(神社の境内など)に入ることや、神聖な物(御輿など)に接触することを禁止するタブーが古来よりある。

本来は、女性だけでなく、生傷を負って流血している男性が神域に入ることや、神域での狩猟なども同様な理由で禁止されている。

道教や密教などの神通力信仰

一説には古代日本においては、おもに道教や密教の影響で、僧侶に対し加持祈祷による法力、神通力が期待されていたためとする説もある。僧侶が祈祷に必要な法力を維持するためには、持戒の徹底が必要であると考られていた。

性欲を起こすと仙人が神通力を失う話としては、『今昔物語』にある久米仙人の話が有名である。

中世における神仏習合

上記の仏教と神道、道教などの異なるタブー観が、中世に習合し、山岳の寺院、修験道などを中心として、鎌倉時代ごろに今の女人禁制、女人結界のベースとなる観念が成立したものと考えられている。

また、唯識論で説かれた「女人地獄使。能断仏種子。外面似菩薩。内心如夜叉」(華厳経を出典とする俗説あり)や法華経の「又女人身。猶有五障」を、その本来の意味や文脈から離れ、「女性は穢れているので成仏できない、救われない」という意味に曲げて解釈し、引用する仏教文献も鎌倉時代ごろから増えてくる。(原典にそういう意味はない)

これらをもって、女人禁制は鎌倉仏教の女性観に基づくと説明されることがある。ただし上記のように法然、道元、日蓮といった鎌倉時代の宗祖たちには、概ね女人禁制に批判的だった。

その他に、女人禁制の由来と思われる理由

また修験道の修行地が、険しい山岳地帯であったためとの見方がある。

古代においては山は魑魅魍魎が住む危険な場所と考えられていた。そのため子供を産む女性は安全のため近づかない、近づいてはならない場所であったとする。

そのような場所だからこそ、修験者は異性に煩わされない厳しい修行の場として、山岳を選んだのだといわれている。文明が進んで、山道などが整備されると、信心深い女性が逆に修験者を頼って登山してくるようになり、困った修験者たちが結界石を置いてタブーの範囲を決め、その外側に女人堂を置いて祈祷や説法を行なった。

民俗学者の柳田國男は姥捨山とされた岩木山(青森県)の登山口にも姥石という結界石があることに着目。結界を越えた女性が石に化したという伝説を『妹の力』『比丘尼石』のなかで紹介している。結界石や境界石の向こうは他界(他界#山上他界)であり、宗教者は俗世から離れた一種の他界で修行を積むことによって、この世ならぬ力を獲得すると考えられた。

また、石長比売が女神であったことに代表されるように、古来より日本各地において山そのものが女神であり、嫉妬深いと考えられた地域も多く、女人の入山が禁制されたのは女神の嫉妬を避ける為であるとされる。たとえば『遠野物語』に登場する遠野三山伝説では、早池峰山と六角牛山はそれぞれ3人の女神が住んだ山とされ、長らく女人禁制であった。また熊野三山周辺でも、山は女神で嫉妬深いと考えられているほか、上り子といわれる男たちは松明を掲げて山へ上るが、女たちは闇の中で祈りを捧げて男たちが持ち帰った神火を迎える役割があり、そこには祭事における男女の役割分担の違いがあるとされる。

また別の説では巫女やイタコにみられるように「女性には霊がつきやすい」ため、荒修行が女性には困難であるという説明づけもされることがある。

女人禁制の理由については、上記のような様々な由来や学説が唱えられている。各々の場所には各々の由来が伝えられている。またそれらが歴史的な過程で絡み合い変容していく場合もあり、どれか一つをもって一般論を導き出すことは困難と言える。

なお、祭りに女人禁制が取り入れられたのは、男尊女卑が広く浸透したとされる江戸時代ないし明治時代以降のことと考えられ、『古事記』には祭りに女性が参加していた記述が見られる。また古代の日本では、女性は神聖な者で神霊が女性に憑依すると広く信じられており、卑弥呼に代表されるように神を祭る資格の多くは、女性にあると考えられていた。

一例として、神道の祖形を留めているといわれる沖縄では女性は「神人(かみんちゅ)」と呼ばれ(男性は「海人(うみんちゅ)」、ノロなどの神職が祭祀を行う御嶽(うたき)では、女人禁制とは逆の男子禁制が敷かれていた。現在でも風習の名残は残っている。

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