逃げ得は許されない:現代日本における「殺人罪の時効」論

日本ではかつて、重大犯罪にも「公訴時効(起訴できなくなる期限)」という制度が存在していました。しかし、技術の進歩や被害者遺族の声などを背景に、殺人罪をめぐる“時効”は根本的に制度変更されたのです。今では、「殺人罪に時効はない」という主張が定説となっています。本稿では、「殺人・時効」をめぐる法制度の変遷・論点・具体的な罪種別の時効・改正の遡及適用・今後の課題などを体系的に解説します。

目次

殺人罪に時効は存在しない:現在の法制度

刑事訴訟法および刑法の改正により、**法定刑の上限が死刑とされうる「人を死亡させた罪」**については、公訴時効が完全に廃止されました。(npa.go.jp)

つまり、現行法では、たとえ何十年が経過していても、殺人罪であれば起訴可能性が残るということです。(ネクスパート法律事務所 –)

もっとも、「殺人罪」以外の「人を死亡させた罪」すべてが時効なし、というわけではありません。他の罪種では改正後も公訴時効が存続するものがあります(後節参照)。

この制度変更は、平成22年4月27日に施行されました。(法務省)

また、改正法は、改正時点でまだ時効が完成していなかった過去の事件にも適用されるよう、経過措置が定められています。(参議院)

この点について、最高裁も合憲判断を示しています。(bengo4.com)

よって、制度としては、「殺人罪=時効なし」が現実の法制度であり、これは起訴可能性の永続性という重大な変化を意味します。

公訴時効とは何か・他の時効制度との違い

「時効」といっても刑事・民事をめぐって複数の制度が存在しますので、まず整理します。

本稿で主に扱うのは「公訴時効」です。

なお公訴時効には、停止中断の制度もあり、逃亡など特定の事態が発生すると時効期間の進行が一時的に止まったりリセットされたりします。(刑事事件に強い弁護士へ今すぐ相談 – ベリーベスト法律事務所)

罪種別:時効なし/延長/従来制度の残存

「人を死亡させた罪」として扱われる犯罪(殺人罪・致死罪など)には、改正後、法定刑に応じて以下のような制度が設けられています。(npa.go.jp)

罪のタイプ法定刑・上限公訴時効(改正後)備考
殺人罪など(法定上限が死刑)死刑・無期懲役時効なし最も重い処罰範囲の犯罪には永久起訴可能性 (npa.go.jp)
死刑ではないが無期懲役上限無期懲役等30年人を死亡させるが死刑対象にならない罪種群 (npa.go.jp)
有期懲役上限20年上限20年20年例:傷害致死など (npa.go.jp)
有期懲役上限以下(それ以外)上限較小10年自動車過失致死などが該当例 (npa.go.jp)

改正前、殺人罪などは25年という時効期間でした。(npa.go.jp)

殺人未遂罪については、現在、公訴時効は 25年 とされています。(keiji-pro.com)

これらをまとめると、「殺人罪(法定上限死刑)」以外の人を死亡させた罪も、時効は完全撤廃ではなく、期間延長存続 が原則となっています。

改正法の遡及適用と憲法問題

重大な論点は、時効を撤廃・延長する法改正を過去の犯罪にさかのぼって適用できるか、すなわち遡及適用の憲法適合性です。(参議院)

改正法の附則には、「改正前に既に時効が成立している犯罪には新制度を適用しない」という経過措置が設けられています。(参議院) ただし「改正時点でまだ時効が完成していない罪」には改正後規定を適用するという扱いです。(参議院)

このような遡及適用について、最高裁は、改正法の附則が憲法39条および31条に反しないと判断しました。(courts.go.jp)

たとえば、1997年の強盗殺人事件で、当時効が成立するはずだった事件について改正後の時効撤廃法を適用し、16年後に起訴された事例が訴訟になりましたが、最高裁はこの起訴を合憲と認めています。(bengo4.com)

もっとも、遡及適用には慎重論もあります。日本弁護士連合会は、長期間後の起訴が被告人の防御権を損う可能性を指摘しており、証拠保存や公開性強化の必要性を強く訴えています。(nichibenren.or.jp)

被害者遺族・遺族請求と民事の時効

刑事上の時効が廃止されたとしても、遺族が加害者に対して 損害賠償請求(不法行為責任) を行う権利には、民法上の消滅時効があります。通常、不法行為に基づく請求権は、被害者または加害者を知ったときから5年、または事件発生後20年で消滅します。(ネクスパート法律事務所 –)

例えば、被害者が死亡した事件後、長年が経過してから請求を試みても、すでに時効を迎えており訴えられないことがあるのです。(文春オンライン)

また、裁判例では、「加害者が遺体を隠匿する・被害者の死亡を知られないようにする行為」が行われていたと認められる場合、遺族請求の起算点を後ろ倒しして時効を認めない判断がなされたケースもあります。(文春オンライン)

従って、刑事と民事の制度は異なる軌道をたどる点に留意が必要です。

実際の事件と制度の意義

制度改正以前には、「逃げ得」が可能な事例も存在しました。たとえば、改正前なら時効成立した可能性のある事件でも、改正法適用で起訴されたケースがあります。(bengo4.com)

また、法務省は、凶悪・重大犯罪についての時効制度の在り方を検討し、殺人だけでも多数の未解決事件において時効完成後に犯人が判明したのはごく少数だと報告しています。(法務省)

制度変更の意義としては、過去の時間経過という理由だけで重大犯罪が罰せられないという「空白期間」を排除するという正義観があります。被害者遺族の痛みを考えれば、時効消滅が“免罪符”になることを防ぐという立場です。

一方、長期間経過後の起訴は、証拠散逸や記憶劣化などにより防御が難しいことから、えん罪リスクや被告人の防御権制約を懸念する批判も根強くあります。(nichibenren.or.jp)

また、証拠保管制度や捜査資料の透明性、弁護側への開示態勢整備など、制度運用上の課題を指摘する声もあります。(nichibenren.or.jp)

今後の課題と展望

制度が改正されたとはいえ、現場運用や制度的整備には未解決の課題があります。

  1. 証拠保全・保存制度の強化
     長期間にわたる捜査や将来の起訴を見越して、証拠物や捜査記録の厳格な保存体制が不可欠です。弁護士連合会は、捜査機関以外の第三者機関による保存管理なども検討すべきと主張しています。(nichibenren.or.jp)
  2. 弁護側アクセス・開示義務拡大
     長期後の訴訟で被告人の反証可能性を確保するため、検察官・捜査機関が収集した全証拠物・目録を被告人・弁護人に開示すべきという要求もあります。(nichibenren.or.jp)
  3. 定年・死亡対応
     時間が経つと被疑者自身が死亡・認知症化などで訴追不可能になるケースも想定され、制度的な配慮が必要です。
  4. 他の刑事時効制度との整合性
     殺人以外の凶悪犯罪や未遂罪・関連罪との時効制度との整合性をどう保つか、また今後新技術犯罪(サイバー犯罪等)を視野に入れた法制度設計も検討課題です。
  5. 国民理解と司法透明性
     時間を超えて起訴されうるという制度には恐怖や抵抗感を持つ人もいるため、制度趣旨・限界・適用基準をわかりやすく示す取り組みが必要です。

まとめ

かつては重大犯罪にも公訴時効が存在していた日本社会において、「殺人罪の時効なし」という制度的転換は、大きな法的・社会的意味を持ちます。重大犯罪について時間経過による免責を認めないことで、被害者の尊厳を守るという観点からの正義が制度的に追求される一方で、長年後の起訴に伴う防御困難性や証拠散逸リスクをどう抑えるかという運用上の課題も残ります。今後は、証拠保存制度の整備、弁護権保障、制度透明性の向上などが、時効なし制度の実効性と公平性を支える鍵となるでしょう。

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