魏の五将軍の一人として名高い張遼は、合肥の戦いでの武勇が広く知られる名将ですが、その「正式な名前」については意外と誤解が多く、検索しても断片的な情報しか得られないことが少なくありません。彼はどのような本名を持ち、なぜ名前が変わり、どのように史書に記されているのか。ここでは『三国志』や『後漢書』などの史料に基づき、張遼という人物を「正式名称」という視点から深掘りし、さらに活躍・人物像まで詳しくまとめます。
張遼の正式な名前とは何か
張遼の本名は「張遼」であり字は「文遠」
張遼の正式な姓名は「張遼(ちょうりょう)」で、字(あざな)は「文遠(ぶんえん)」と記されています。中国史では字は成人した男性に与えられる通称であり、張遼は史書でも「張文遠」と呼ばれることがありました。
姓「張」、名「遼」、字「文遠」。この三つが彼の正式な名称に関する基礎情報です。
一部で「張遼の本名は別だったのでは」という説が出る理由は、張遼が若いころに改名を行ったとされる記録が存在するためですが、後述の通りそれは“姓”に関するものであり、名が変わったわけではありません。
張遼の本来の姓が「聶(じょう)」であった説
『三国志』裴松之注によると、張遼はもともと「聶遼(じょうりょう)」という名であったと記録されています。つまり名は「遼」で変わっていませんが、姓が聶から張に変わった形になります。
諸説ありますが、主流の解釈としては以下の可能性が挙げられています。
・張氏一族に養子として迎えられた
・張氏の保護下に入り帰属を示すために改姓した
・地方豪族との結びつきによる政治的判断
史料は多くを語っていませんが、若い張遼が出自を変えることで武将としての立場を安定させたと考えられています。
したがって正式名称という観点では、「成人後に史書で最も一般的に使われたもの=張遼」が正しい表記となります。
張遼の改名・改姓が行われた背景
改姓は戦乱における身分や保護関係の象徴
三国時代では改姓は珍しくありませんでした。群雄割拠の中、若い武将が生き抜くために有力者の庇護を得ることは重要であり、改姓はその意思を示す手段にもなっていました。
張遼が改姓した背景として、以下のような理由が推測されています。
・当時仕えていた主君との関係から政治的な意味を帯びた
・新しい一族の庇護下に入る形で戦乱を生き抜くため
・兵士としての立場を強化する判断
これらは史書に細かく記述されているわけではありませんが、同時代における改姓の風習を照らし合わせることで合理的な推論が可能となっています。
張遼の名「遼」には武に通じる意味
名の「遼」は「遠い」「広い」「見渡す」といった意味を持ちます。
張遼が若いころから武芸に秀で、戦場で大局を見渡す力に優れた人物だったことを踏まえると、彼の本名はその資質を象徴しているとも解釈できます。
この名自体は改名されておらず、生涯を通じて「遼」を名として用い続けたことが史書から確認できます。
張遼が活躍した舞台と公式記録での表記
史料では「張遼」と「張文遠」が併用されている
『三国志』魏書 では張遼の表記は主に以下の二つが使われます。
・張遼
・張文遠
軍事行動に関する記述では「張遼」が多く、人物評やエピソードでは「文遠」と呼ばれることもあります。当時の文化としては極めて自然な使い分けであり、どちらも公式記録の中で正しい表記です。
現代日本では「張遼」という呼び方が一般的であるため、これが正式名称として普及しています。
合肥の戦いでの勇名が正式名称の認知を高めた
張遼が「張遼」という名称で広く知られるようになった最大の理由は、曹操軍の猛将として名を馳せた「合肥の戦い」にあります。
わずか800の兵で数万の呉軍に立ち向かい、先陣を切って呉軍の内部に突撃して混乱させた話は有名です。
この武勇は史書にも記録され、その際の名は「張遼」とされているため、その表記が後世まで圧倒的に定着しました。
張遼という人物の性格と評価
勇猛だけではなく冷静沈着な指揮官
張遼は勇将として知られますが、実際には判断力にも優れており、無謀な突撃を好むタイプではありませんでした。
曹操の信頼も厚く、袁譚・袁尚への討伐、烏桓征伐などでも重要な役割を担っています。
性格面でも忠義心が強く、部下への思いやりも記録されているなど、人格面でも高く評価されています。
呉の将兵に恐れられた存在
合肥の戦い以降、呉の兵士は張遼の名前を聞いただけで怯えたとされ、この逸話は『三国志』にも明記されています。
「張遼は鬼のようだ」という表現まで残されており、正式名称としての“張遼”が恐怖の象徴として語り継がれる理由にもなっています。
張遼の正式な名前を正確に理解する重要性
張遼は三国志の中でも特に人気の高い武将であり、ゲーム・漫画・小説などで広く登場します。しかし、その一方で名前に関する情報は意外と誤解が多く、公式史料に基づく理解が必要になります。
・本名(名)は生涯変わらず「遼」
・字は「文遠」
・青年期に改姓し「聶遼」から「張遼」へ
・史書で最も多く使われ確立した表記が「張遼」
これらを押さえることで、張遼という人物像をより深く理解することができます。
まとめ
張遼の正式な名前は、歴史書に基づくと「張遼」であり、字は「文遠」という形で記録されています。若いころの改姓により「聶遼」だった可能性が示されますが、史書において最も一般的に使われ、後世に広まった正式な表記は「張遼」です。
生涯の名「遼」に込められた意味、改姓の背景、そして合肥の戦いでの英雄的活躍により、その名前は魏の猛将として後世まで語り継がれる存在となりました。
張遼を正しく理解するためには、正式名称を起点に史料を読み解き、その人物像と活躍を総合的に捉えることが重要です。

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