政治の話になると、すぐに「それは右翼だ」「あいつは左翼だ」と決めつける人がいる。だが、その使い方はかなり雑だ。言葉を知らないままラベルだけ貼ると、議論ではなくただの罵倒になる。便利な言葉を手に入れた人間が、すぐ他人を殴る道具にするのは本当に面倒だ。
結論から言うと、右翼も左翼も、それだけで危険思想ではない。右翼は伝統や秩序を重く見る考え方、左翼は平等や改革を重く見る考え方として使われることが多い。問題は、その考え方が「暴力」「差別」「敵の排除」「陰謀論」と結びついたときだ。そこから危険思想に変わる。
右翼・左翼という言葉の語源は、フランス革命期の国民議会で、穏健派が右側、革新派が左側に座ったことに由来するとされる。そこから、保守的な思想を右翼、革新的な思想を左翼と呼ぶようになった。
右翼と左翼とは何か
右翼とは伝統・国家・秩序を重く見る立場
右翼とは、ざっくり言えば、伝統、国家、文化、秩序、家族、歴史を大事にする立場だ。日本で言えば、天皇制、国防、領土問題、歴史認識などに強い関心を持つ人が右翼と呼ばれやすい。
ただし、ここで大事なのは「国を大事にする=危険」ではないという点だ。自分の国を大事に思うこと自体は普通である。災害時に助け合うことも、文化を守ることも、国防を考えることも、すぐ危険思想にするのは乱暴すぎる。
危険になるのは、「自国を大事にする」を超えて、「他国や外国人を一方的に憎む」「異なる文化を排除する」「暴力で意見を通す」となったときだ。愛国心はまともに使えば社会を支えるが、雑に燃やすとただの排外主義になる。
警察庁の白書でも、右翼は領土問題や歴史認識問題などを捉えて関係国や日本政府を批判していると説明されている。また、右翼運動に伴う事件の検挙や、暴力団関係者との関係がある団体への言及もある。つまり、普通の保守思想と、違法行為を行う過激な活動は分けて見るべきだ。
左翼とは平等・改革・人権を重く見る立場
左翼とは、平等、労働者の権利、福祉、人権、反差別、社会改革を重く見る立場だ。貧困、格差、労働環境、少数派の権利などを問題にする人が左翼と呼ばれやすい。
これも、それだけで危険思想ではない。社会に不公平があるなら直すべきだし、弱い立場の人を守る仕組みも必要だ。働く人の権利を考えることも、福祉を考えることも、普通に大事な話である。
危険になるのは、「平等のためなら暴力も許される」「反対者は敵だから潰してよい」「革命のためなら個人の自由を奪ってよい」となったときだ。平等を目指すはずの思想が、違う意見を許さない全体主義に変わるなら、それはもう救いではなく支配だ。
警察庁は、極左暴力集団について、社会主義革命・共産主義革命を目指し、平和な民主主義社会を暴力で破壊することを企てている集団と説明している。火炎びんや鉄パイプを使った暴力行為、テロ・ゲリラ、内ゲバにも触れている。ここでも、普通の左派思想と、暴力を使う過激派は分けて考えないといけない。
右翼・左翼と危険思想の関係
危険思想とは何か
この記事でいう危険思想とは、単に「自分と違う意見」のことではない。危険思想とは、暴力、差別、恐怖、排除、洗脳で人を動かそうとする考え方だ。
たとえば、次のような考え方は危ない。
「自分たちだけが正しい」
「反対する人間は敵だ」
「敵には何をしてもよい」
「社会が悪いのは特定の民族や集団のせいだ」
「法律より思想のほうが上だ」
この形になると、右翼でも左翼でも危険である。旗の色が違うだけで、中身は同じだ。敵を作り、怒りをあおり、考える力を奪う。まるで人間の脳に安い燃料を入れて暴走させるようなものだ。
右翼が危険思想に変わるパターン
右翼が危険思想に変わるのは、愛国心が排外主義に変わるときだ。
国を大事にすることと、外国人を攻撃することは違う。歴史を大事にすることと、都合の悪い事実を消すことも違う。治安を守ることと、弱い立場の人を疑い続けることも違う。
危険な右翼思想では、「日本人ならこうあるべき」「反対する者は反日だ」「外国人が全部悪い」という単純な話にされやすい。単純な話は気持ちいい。だが、気持ちいいだけの政治理解は危ない。現実はもっと面倒で、面倒なものを面倒なまま見る力が必要だ。
左翼が危険思想に変わるパターン
左翼が危険思想に変わるのは、正義感が暴力や独善に変わるときだ。
差別をなくすこと、貧困を減らすこと、労働者を守ることは大事だ。しかし、「正しい目的のためなら何をしてもよい」となれば危険だ。正義は人を救うこともあるが、人を黙らせる武器にもなる。
危険な左翼思想では、「自分たちは弱者の味方だから絶対に正しい」「反対意見はすべて差別だ」「社会を変えるためなら強制も仕方ない」となりやすい。これも危ない。自由を守るために自由を潰すなら、もはや何をしているのか分からない。
現代に潜む右翼・左翼のリスク
SNSで思想が極端になりやすい
現代の最大のリスクはSNSだ。SNSでは、怒りや不安をあおる投稿ほど広がりやすい。冷静な説明より、「敵がいる」「裏切り者がいる」「真実を知っているのは自分たちだけだ」という話のほうが目立つ。人間の注意力は、残念ながら上品にできていない。
フィルターバブルとは、検索履歴やクリック履歴などをもとに、自分が見たい情報が優先して表示され、違う考え方から離されていく情報環境を指す。総務省の情報通信白書でも扱われているテーマで、情報の偏りや社会的分断、誤情報の拡散が問題になる。
右翼でも左翼でも、同じ意見ばかり見ていると、自分の考えが世の中の中心に見えてくる。これはかなり危ない。実際には狭い場所で反響しているだけなのに、「国民の総意だ」と思い込む。ネットの小部屋で叫んでいるだけなのに、世界を代表した気分になる。なかなか見事な錯覚である。
陰謀論と結びつくと危険度が上がる
右翼・左翼が危険思想に近づくとき、よく出てくるのが陰謀論だ。
右翼系では、「外国勢力が日本を壊している」「メディアはすべて反日だ」という話になりやすい。左翼系では、「権力者や資本家が全部を裏で支配している」「反対する人は洗脳されている」という話になりやすい。
もちろん、政治や経済に利害関係はある。権力の監視も必要だ。だが、何でも陰謀で説明し始めると、もう検証が消える。証拠がなくても「隠されている」と言い、反論されても「それも工作だ」と言う。これでは話し合いにならない。議論の形をした迷路だ。
ラベル貼りで普通の議論が壊れる
現代では、「右翼」「左翼」という言葉が雑な悪口として使われすぎている。
少し国防を語れば「右翼」と言われる。少し福祉を語れば「左翼」と言われる。これでは、まともな議論が育たない。国防も福祉も、どちらも社会に必要なテーマだ。それをラベルで潰すのは、知性の節約というより、知性の放棄である。
日本国憲法では、思想及び良心の自由、表現の自由が保障されている。つまり、考えを持つこと自体は守られるべきものだ。問題にすべきは、思想そのものではなく、暴力や違法行為、差別扇動などの具体的な行動である。
右翼・左翼を見分けるより大事なこと
問題は右か左かではなく極端かどうか
右翼か左翼かを見分けるより大事なのは、その考えが極端になっていないかを見ることだ。
普通の保守思想なら、伝統を守りながら現実に合わせて考える。普通の革新思想なら、不公平を直しながら自由も守る。どちらも社会に必要だ。
だが、極端になると違う。右翼は排外主義に寄り、左翼は暴力革命や独善に寄る。どちらも、反対意見を人間として扱わなくなる。そこが危険ラインだ。
見るべきポイントは簡単だ。
相手を人間として見ているか。
暴力を正当化していないか。
証拠を確認しているか。
反対意見を聞く余地があるか。
特定の集団を悪者にしていないか。
このあたりが崩れていたら、右でも左でも危険だ。
自分の中の偏りも疑うべき
正直、危険思想は「変な人たち」だけの問題ではない。自分にも関係がある。人は誰でも、自分が見たい情報を見たい。自分の考えをほめてくれる人を信じたい。自分を不安にさせる話を避けたい。
だからこそ、自分の考えに合う情報ばかり見ているときは危ない。右翼の記事ばかり読む人も、左翼の記事ばかり読む人も、同じ穴に落ちる。穴の色が違うだけだ。
対策は地味だが強い。一次情報を見る。反対側の主張も読む。数字を見る。感情だけで共有しない。強すぎる言葉を見たら一度止まる。これだけでかなり変わる。
まとめ
右翼とは、伝統、国家、秩序を重く見る立場だ。左翼とは、平等、改革、人権を重く見る立場だ。どちらも、それだけで危険思想ではない。
危険なのは、右翼や左翼そのものではなく、暴力、差別、排除、陰謀論、反対者への憎悪と結びついたときだ。右翼は排外主義に、左翼は暴力革命や独善に変わるリスクがある。ここを見誤ると、普通の意見まで敵扱いして、本当に危ない思想を見逃す。
現代ではSNSによって、思想は簡単に極端になる。自分に近い意見ばかり見ていると、それが世界のすべてに見える。だが、それは世界ではない。ただの画面だ。
右翼か左翼かで人を決めつける前に、その主張が暴力を認めていないか、差別をあおっていないか、証拠を無視していないかを見るべきだ。政治思想は社会をよくする道具にもなるが、人を攻撃する武器にもなる。だからこそ、言葉を雑に使ってはいけない。雑な言葉は、雑な社会を作るだけだ。

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