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浄土真宗はどんな宗派?どのように広まった?親鸞・蓮如・一向一揆までわかりやすく解説

「浄土真宗は、南無阿弥陀仏と唱えれば極楽に行ける宗派」

そんなイメージを持っている人は多いだろう。しかし、これは半分正しく、半分はかなり雑な理解である。

では、浄土真宗とはどんな宗派なのか? なぜ日本でこれほど大きな宗派になったのだろうか?

調べていくと、理由はかなり興味深い。浄土真宗は、厳しい修行をできる一部の人ではなく、普通に働き、悩み、失敗する人間にも救いの道が開かれていると考えた。そして鎌倉時代の親鸞から室町時代の蓮如へと教えが受け継がれる中で、寺だけではなく人と人のネットワークによって全国へ広がっていった。

しかも戦国時代になると、門徒の集団は大名と戦うほどの力を持つようになる。

単なる「お念仏の宗派」だけでは、この歴史は説明できない。

目次

浄土真宗とはどんな宗派なのか?

親鸞を宗祖とする日本仏教の宗派

浄土真宗は、鎌倉時代の僧侶である親鸞(1173~1262)を宗祖とする仏教の一つである。

現在の浄土真宗では、阿弥陀如来を本尊とし、『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』の「浄土三部経」を重要な経典としている。親鸞の主著は『教行信証』である。真宗大谷派の公式情報でも、この基本構成が示されている。
真宗大谷派「真宗大谷派について」

ただし、少し面白い点がある。

親鸞本人が「自分が新しい宗教団体を作った」と考えていたわけではない。浄土真宗本願寺派の説明でも、親鸞にとっての立教開宗は教団の創立というより、独自の教えを確立したことを意味すると説明されている。親鸞自身は、師である法然の教えを受け継いだという意識が強かった。

つまり、

「法然の念仏の教えを、親鸞がさらに深く考え、体系化した」

と見ると理解しやすい。

中心にあるのは阿弥陀如来の「本願」

浄土真宗を理解するとき、一番大切なのが「本願」と「他力」という考え方だ。

人間は、自分の努力だけで欲や怒り、迷いを完全になくすことは難しい。むしろ「自分は正しい」「自分ならできる」と思うこと自体が、新しい迷いになることさえある。

そこで親鸞は、自分の修行能力によって救いを勝ち取るのではなく、すべての人を救おうとする阿弥陀如来の本願に身を任せる道を重視した。

これが「他力」の考え方である。

ここは誤解されやすい。

「他力本願」は現在の日常語では「他人任せ」という意味で使われることがある。しかし、浄土真宗でいう他力は他人に丸投げする意味ではない。阿弥陀如来の本願の力を意味する宗教用語だ。浄土真宗本願寺派も、阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏を申す人生を歩むことを教義としている。
浄土真宗本願寺派「宗門基本情報」

「南無阿弥陀仏」は願いをかなえる呪文ではない

浄土真宗と聞けば、「南無阿弥陀仏」という念仏を思い浮かべる人も多い。

しかし、「たくさん唱えればポイントが貯まって救われる」という話ではない。

真宗大谷派は、念仏について、環境や努力、知恵や知識の優劣を超えてすべての人を救おうとする阿弥陀如来からの呼びかけだと説明している。念仏を何回唱えたかを競う考え方ではない。

これは浄土真宗を理解するうえでかなり重要だ。

厳しい修行ができる人だけが有利になるなら、病気の人、貧しい人、働かなければ生きていけない人には不利になる。

浄土真宗は、そこを大きく変えた。

能力や立場とは関係なく、救いがすべての人に開かれていると考えたのである。

浄土真宗を開いた親鸞とはどんな人物?

比叡山で20年間修行しても答えが出なかった

親鸞は1173年、京都に生まれた。

9歳で出家し、比叡山延暦寺で約20年間にわたって修行と学問を続けている。

これだけ聞けば、超エリート僧侶への道を進んでいるように見える。

ところが、うまくいかなかった。

真宗大谷派によると、親鸞は長期間修行しても、自分の迷いや苦悩を超える道を見つけることができなかったという。
真宗大谷派「親鸞聖人の生涯」

ここが浄土真宗の出発点として非常に面白い。

修行をしていない人が「修行なんて必要ない」と言ったのではない。

長期間修行した人間が、それでも人間の煩悩を完全には消せないという現実にぶつかったのである。

法然との出会いで考え方が変わった

29歳になった親鸞は比叡山を下り、法然のもとを訪れる。

法然は、阿弥陀仏を信じて念仏を称える道を説いていた。

身分や知識、難しい修行の能力にかかわらず救いの道が開かれている。この考えは親鸞に大きな影響を与えた。

しかし当時、専修念仏は既存の仏教勢力から強い反発を受ける。

1207年には念仏弾圧が起こり、法然は流罪、親鸞も越後へ流された。

それでも教えは消えなかった。

むしろ、ここから地方へ広がっていくことになる。

浄土真宗はどのように広まった?

親鸞が関東で約20年間布教した

流罪を許された後、親鸞は関東へ向かった。

浄土真宗本願寺派によれば、親鸞は家族とともに関東へ移り、およそ20年間にわたって布教を行っている。京都へ戻った後も、関東の門弟と手紙を交わしながら教えを伝え続けた。
浄土真宗本願寺派「親鸞聖人のご生涯」

つまり浄土真宗は、京都の寺院だけで成長した宗派ではない。

地方に暮らす人々との直接的なつながりが、かなり早い段階から存在していた。

親鸞の死後も弟子や門徒による集団が各地に残った。

ただ、この時点では現在のような巨大教団が完成していたわけではない。

爆発的に広がるのは、約200年後である。

浄土真宗を全国へ広げた蓮如

実際に教団を巨大化させたのは蓮如だった

浄土真宗の歴史を語るなら、親鸞と同じくらい重要なのが本願寺第8代の蓮如(1415~1499)である。

私はここが浄土真宗の歴史で特に面白いところだと思う。

宗祖は親鸞なのに、全国的な巨大教団へ成長させた人物は、約200年後に登場した蓮如なのである。

蓮如が本願寺を継いだ15世紀、日本は大きく揺れていた。

政治秩序が崩れ、応仁の乱などの戦乱も続く。社会の仕組みそのものが変わる時代だった。

そんな中で蓮如は積極的な布教を始める。

本願寺派の公式資料でも、蓮如の時代に近江などで布教が進み、「爆発的に教線が拡大した」と説明されている。

難しい仏教を「御文章」でわかりやすく伝えた

蓮如の大きな武器になったのが「御文章(御文)」である。

簡単にいえば、門徒へ送った手紙だ。

難しい仏教哲学を専門家だけに説明するのではなく、一般の人にも理解しやすい文章で浄土真宗の教えを伝えた。

今なら、専門書だけを出版するのではなく、短く読みやすい解説を大量に配ったようなものだ。

しかも手紙なら各地へ送ることができる。

蓮如は『正信偈・和讃』を広め、平易で簡潔な御文章を使いながら、人々と直接語り合って布教を進めた。結果として門徒の輪は広がり、全国へ伸びていった。
浄土真宗本願寺派「蓮如上人五百回遠忌法要についての消息」

「講」という地域コミュニティが強かった

もう一つ大きかったのが「講」である。

講とは、門徒が集まり、教えを聞いたり話し合ったりする地域の集まりだ。

蓮如の時代には各地で講が組織され、本願寺を支える大きなネットワークになっていった。本願寺派の資料でも、門徒同士の集まりが宗門発展の基礎になったことが説明されている。

これは単なる宗教行事以上の意味を持っていたはずだ。

寺に行って僧侶の話を一方的に聞くだけではない。

同じ地域で生活する人たちが集まり、教えについて話し合う。

人から人へ伝わる仕組みができていたのである。

現代風に言えば、かなり強力な地域コミュニティだ。

なぜ浄土真宗は庶民に広まったのか?

身分や能力に左右されにくい教えだった

浄土真宗が広がった最大の理由として無視できないのが、「誰にでも開かれた救い」という考え方だ。

高度な仏教学を学ばなければならない。

長期間山にこもらなければならない。

厳しい修行を成功させなければならない。

そうした条件を救いの前提にしない。

真宗大谷派も、南無阿弥陀仏の念仏について「いつでも、どこでも、だれでもできる」仏道と説明している。
真宗大谷派「浄土真宗の教え」

農業や商売をしながら生活する人でも実践できる。

これは大きい。

中世社会で広く浸透した理由を考えるとき、このハードルの低さと平等性は外せないだろう。

戦乱の時代に「よりどころ」になった

15世紀後半から16世紀にかけて、日本は戦乱の時代へ入っていく。

戦争だけではなく、政治や経済の仕組みも変化していた。

そんな不安定な社会で、身分や能力にかかわらず阿弥陀如来の救いが開かれているという考えは、多くの人にとって強い意味を持った。

さらに「講」による地域のつながりが加わる。

信仰だけではなく、人間同士の横のネットワークまで育っていった。

この二つが組み合わされたことが、本願寺教団の巨大化につながったと考えるとわかりやすい。

一向一揆と浄土真宗の関係

門徒のネットワークは政治勢力にもなった

浄土真宗が大きくなれば、当然ながら社会への影響力も強くなる。

そして戦国時代には、本願寺系の門徒が関わる「一向一揆」が各地で起こった。

特に有名なのが加賀一向一揆である。

加賀では一向一揆の勢力が大きな政治的影響力を持つようになり、「百姓の持ちたる国」と呼ばれるような状況まで生まれた。石川県白山市の鳥越一向一揆歴史館でも、この歴史が現在まで伝えられている。
鳥越一向一揆歴史館公式サイト

三河でも1563~1564年に三河一向一揆が起こり、徳川家康と浄土真宗寺院や門徒側が衝突した。文化庁の国指定文化財データベースには、一揆の中心寺院の一つだった本證寺について記録が残されている。
文化庁「国指定文化財等データベース・本證寺境内」

「浄土真宗=戦う宗教」と考えるのは間違い

ただし、ここで一つ注意したい。

浄土真宗そのものが「武装して大名と戦え」と教える宗派だったわけではない。

信仰によって作られた地域ネットワークが、戦国時代の土地争いや政治対立と結びつき、結果として武装集団になる場合があったと考えたほうが正確だ。

本願寺の勢力はその後さらに巨大化し、大坂の石山本願寺を中心に織田信長と約11年間戦った。現在の大阪城付近には、かつて本願寺を中心とした大規模な寺内町が存在した。
北御堂「北御堂ミュージアム設立について」

念仏の教えから始まった宗派が、戦国大名でも無視できない存在になった。

浄土真宗がどれほど社会に浸透していたかを示す出来事だ。

なぜ西本願寺と東本願寺があるのか?

1602年に本願寺が東西へ分かれた

戦国時代を生き抜いた本願寺は、豊臣秀吉の時代に京都へ移る。

その後、後継問題や政治情勢が絡み、1602年に本願寺は東西へ分かれた。

現在の「浄土真宗本願寺派」の本山が西本願寺、「真宗大谷派」の本山が東本願寺である。

真宗大谷派の公式説明でも、1591年に本願寺が京都堀川へ移り、その後1602年に教如が徳川家康から土地の寄進を受けて東本願寺を創立した経緯が紹介されている。

現在の浄土真宗には、この二つ以外にも宗派がある。

親鸞を祖とする伝統的な宗派として「真宗十派」があり、本願寺派、大谷派、高田派、佛光寺派、興正派などが存在する。

「浄土真宗=西本願寺だけ」というわけではないので、この点は覚えておきたい。

浄土真宗は何がそれほど画期的だったのか?

浄土真宗の歴史を見ていると、単純に「念仏が簡単だったから流行した」と説明するだけでは足りない。

重要なのは、人間そのものの見方だ。

人間は欲もあれば怒りもある。

間違えるし、弱い。

修行すれば完全な人間になれるという前提から出発するのではなく、そんな人間をそのまま救おうとする阿弥陀如来の本願を中心に置いた。

だから、生活を捨てて修行に専念できない人にも届いた。

さらに親鸞が関東へ教えを広げ、後の蓮如が「御文章」と「講」を使って、一般の人へわかりやすく伝えた。

教えと伝える仕組みの両方がそろっていたのである。

ここまでを見ると、浄土真宗が巨大化したのは偶然だったとは思いにくい。

まとめ

浄土真宗とは、親鸞を宗祖とし、阿弥陀如来の本願による救いを中心に置く仏教の宗派である。

「南無阿弥陀仏」と称えることで有名だが、念仏の回数によって救いを勝ち取る宗教ではない。人間自身の能力や修行だけを頼りにするのではなく、阿弥陀如来の本願に身を任せる「他力」の考え方が重要になる。

そして、浄土真宗が広まった流れを整理すると、

  • 親鸞が法然から念仏の教えを受け継いだ
  • 関東で約20年間布教した
  • 弟子や門徒が各地で教えを受け継いだ
  • 室町時代に蓮如が「御文章」でわかりやすく伝えた
  • 「講」という地域ネットワークが各地に作られた
  • 戦国時代には一向一揆を生むほど巨大な社会勢力になった
  • 江戸時代初期に本願寺が東西へ分かれた

という流れになる。

私には、浄土真宗が広まった最大の理由は「念仏が簡単だから」だけではないように見える。

偉い人、修行できる人、知識のある人だけを対象にしなかったこと。そして難しい思想を普通の生活をしている人に届く言葉へ変え、さらに人と人を結ぶ仕組みまで作ったことが大きかった。

鎌倉時代の一人の僧侶が深く悩んだ末に選んだ道が、約200年後には日本全国を結ぶ巨大な宗教ネットワークになり、戦国大名すら無視できない勢力へ変わった。

浄土真宗の歴史は、宗教史だけでは終わらない。

中世の日本社会そのものを理解するうえでも、かなり重要な存在なのである。

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この記事を書いた人

30代ブロガー
いろいろあって苦労したことの備忘録
少しでも皆さまのお役に立てれば幸いです✨

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