「考える人」は、実はトイレをしている人の姿から作られた。
こう聞くと、世界的な名作が急に人間くさく見える。美術館の静かな空気が、一気にトイレの個室まで落ちてくる。人間という生き物は、名作すら便座に座らせたくなるらしい。実にたくましい想像力だ。
ただ、結論から言う。「考える人」がトイレ中の姿から作られた、という説は本当とは言い切れない。むしろ、美術史としてはかなり弱い。
ロダン美術館の公式解説では、「考える人」はもともと「詩人」と呼ばれ、ダンテの『神曲』や「地獄の門」と深く関係する作品だと説明されている。つまり、ロダンが作ったのは「便座で踏ん張る人」ではなく、「地獄を見つめながら考える人」だった。話の落差がひどい。人類、もう少し落ち着いてほしい。
とはいえ、「トイレで考えが飛ぶ」という感覚はかなり本物だ。私も、トイレや風呂にいると、急にどうでもいい記憶や仕事の案、ブログのタイトル、人生の失敗まで流れてくることがある。頼んでいないのに脳が勝手に会議を始める。しかも議題が多い。
だからこの記事では、「考える人」とトイレ説の真相を整理しつつ、なぜトイレ中に思考が飛びやすいのかまで考えていく。
「考える人」はトイレ中の姿から作られたのか
結論:トイレ説はかなり怪しい
「考える人」がトイレをしている姿から作られたという話は、ネタとしては強い。覚えやすいし、誰かに話したくなる。ブログ向きの話でもある。悔しいが、タイトルとしてはうまい。
しかし、ロダン美術館やメトロポリタン美術館などの公式解説を見る限り、「トイレ」「排便」「便座」から作られたという説明は出てこない。ロダン美術館は、「考える人」は1880年ごろに「地獄の門」の上部に置く像として考えられ、当初は「詩人」と呼ばれていたと説明している。
メトロポリタン美術館も、「考える人」はロダンの巨大な青銅の扉「地獄の門」の上に置かれ、地獄に落ちた人々の運命を考える像だったと説明している。つまり、公式情報で見る限り、出発点はトイレではない。
つまり、「考える人=トイレ中の人」という説は、あとから見た人が姿勢の似ている点から言い出した俗説と見るのが自然だ。
本来はダンテを表す像だった
「考える人」は、最初から単独の有名な銅像として作られたわけではない。
もともとは、ロダンの大作「地獄の門」の一部だった。「地獄の門」は、ダンテの『神曲』にある地獄の世界から着想を得た巨大な作品だ。ロダン美術館によると、ロダンはこの作品のために200以上の人物像や群像を作ったとされる。これだけでもかなり執念深い。人間、地獄を表現しようとすると作業量も地獄になる。
その上部に置かれる人物が、のちの「考える人」だった。ロダン美術館の解説では、この像はダンテを表していたとされる。ダンテは『神曲』を書いた詩人であり、地獄の輪を見つめながら、自分の作品について思いを巡らせている存在だった。
静岡県立美術館のロダン解説でも、「考える人」は、ロダンが「地獄の門」の注文を受けたあと、ダンテの『神曲』に記された地獄の悲劇を見つめる「ダンテ像」として考えたものだと説明されている。
つまり、本来の「考える人」は、トイレで今日の予定を考えている人ではない。地獄を見ている。かなり重い。こちらが勝手にトイレへ連れて行くには、やや申し訳ないレベルだ。
「詩人」から「考える人」になった
「考える人」は、最初から「考える人」という名前で世界に出たわけではない。
ロダン美術館によると、この像は当初「詩人」と呼ばれていた。その後、「地獄の門」に残りながらも、1888年には単独でも展示され、独立した作品として知られるようになった。さらに1904年に大型化され、現在よく知られる「考える人」のイメージが広がった。
ここが大事だ。
「考える人」という名前だけを見ると、ただ頭を使っている人に見える。だから、受験、仕事、人生、ブログ、投資、そしてトイレまで、いろいろな話に引っ張られやすい。
しかし、作品の出発点を見ると、もっと暗くて重い。地獄を見て、苦しみを見て、それでも考える人だ。名前だけが一人歩きして、いつの間にか「トイレで思考が深まる人」みたいに扱われている。名作も大変だ。ネットに捕まると、だいたい雑に使われる。
なぜ「トイレ説」が広がったのか
姿勢があまりにもトイレっぽい
トイレ説が広がる理由は、かなり単純だ。姿勢が似ているからだ。
「考える人」は、前かがみになり、ひじを膝に置き、手をあごの近くに当てている。洋式トイレで考え込んでいる人に見えると言われれば、たしかに見える。
しかも、人はトイレでよく考える。スマホを見る人もいれば、仕事のことを考える人もいる。急に昔の失敗を思い出す人もいる。人体は排泄だけでも面倒なのに、脳まで余計な仕事を始める。なぜそこまで忙しくしたいのか。
つまり、「姿勢が似ている」ことと「トイレで考える体験」が合わさって、「考える人はトイレ中の姿だったのでは?」という話になったのだろう。
ただし、これは見た目から生まれた連想であって、作品の由来とは別の話だ。
排便姿勢としての「考える人」は本当に語られている
ややこしいのは、トイレと「考える人」の関係が完全なデマではない点だ。
「考える人」がトイレ中の姿から作られたわけではない。しかし、排便の姿勢として「考える人のポーズ」が役立つ、という話は医療系の記事でも出てくる。
高野病院の解説では、前かがみの姿勢をとると、恥骨直腸筋がゆるみ、直腸と肛門の角度が開いて便が出やすくなると説明されている。そして「考える人のポーズ」は排便に適した姿勢だったと紹介されている。
また、CareNetの記事では、排便時に通常の座位姿勢よりも「考える人」の姿勢が効率的になりうるとする研究が紹介されている。研究では、通常の座位で排泄できなかった患者が「考える人」の姿勢をとった場合の変化が評価されている。
ここで大事なのは順番だ。
「考える人」がトイレから生まれたのではない。
「考える人」の姿勢が、あとからトイレの姿勢として使われた。
ここを混ぜると話が一気に雑になる。人類はすぐ混ぜる。味噌汁に何でも入れる感覚で、由来にも何でも入れる。
トイレ中に思考が飛ぶのはなぜか
何もしない時間が脳を動かす
トイレにいるとき、私たちは一時的に作業から離れる。パソコンも閉じる。人とも話さない。歩き回ることもない。体は同じ場所にいるのに、頭だけが勝手に動く。
この状態は、風呂や散歩に近い。
ミネソタ大学の研究紹介では、シャワーや散歩のような「ほどよく注意を使う活動」の中で、心がさまようことが創造的なアイデアにつながる場合があると説明されている。大事なのは、完全に退屈すぎる時間ではなく、ほどよく体が動いたり、軽く注意を使ったりする時間だという点だ。
バージニア大学の記事でも、シャワー中に心がさまよい、突然よい考えが浮かぶ現象が紹介されている。研究者は、完全に無意味な作業ではなく、散歩、庭仕事、シャワーのような「ほどよく関わる活動」が関係すると説明している。
トイレそのものを直接説明する研究ではないが、感覚としてはかなり近い。何かに集中しすぎていない。けれど、完全に何もしていないわけでもない。その中間で、頭が勝手に別の道を歩き出す。
スマホを持ち込むと考える時間は消える
ただし、ここで問題がある。スマホだ。
トイレにスマホを持ち込むと、思考が飛ぶ前にSNSへ飛ぶ。人類の集中力は、通知ひとつで雑に売り払われる。もったいない。
トイレで考えが広がるのは、頭に少し余白があるからだ。余白があるから、仕事の案、ブログの導入、買うべきもの、やめるべき習慣、過去の失敗などが勝手に出てくる。
しかし、スマホを見てしまうと、その余白は埋まる。脳が自分で考える前に、外から情報が流れ込む。これでは「考える人」ではなく「スクロールする人」だ。かなり現代的だが、名作にはなりにくい。
トイレは小さな個室だから考えやすい
トイレは、変な場所だ。
家の中でもかなり個人的な場所で、誰にも邪魔されにくい。仕事場でも学校でも、トイレだけは一人になれる。短い時間だが、外の人間関係から切り離される。
だから、頭の中にあるものが出やすい。
考えようとして考えるというより、勝手に思考がこぼれる。やるべきこと、やりたくないこと、気になっている人、書きたい記事、面倒な連絡、金の不安、体重のこと。人間の頭は、静かになると急にうるさい。
この感覚があるから、「考える人」とトイレは結びつきやすい。作品の由来としては違っても、体験としてはわかる。ここがこの話の面白いところだ。
「考える人」は本当に何を表しているのか
ただ頭を使っている人ではない
「考える人」は、ただの知的ポーズではない。
京都国立博物館の解説では、「考える人」は考えるポーズを取っているだけでなく、傾いた上体を支える右手、足にのせた左手、盛り上がった筋肉、大きな手足など、体の構成や力強さも重要だと説明されている。
つまり、「考える人」は頭だけの像ではない。全身で考えている像だ。
あの像を見ると、顔だけでなく、背中、腕、足、手の力まで目に入る。考えるという行為が、頭の中だけで完結していない。体まで固まり、苦しみ、重くなっている。
これがすごい。
本当に考えているとき、人はきれいな姿勢ではいられない。机に突っ伏す。頭を抱える。足を組む。変な姿勢になる。悩みが深いほど、姿勢はだいたい悪くなる。人類の体設計にも少し問題がある。
苦しみながら考える姿だから強い
「考える人」が長く残っている理由は、かっこいいからだけではない。
苦しそうだからだ。
ロダン美術館は、この像を「苦しむ体」を持つ存在でありながら、詩によって苦しみを超えようとする自由な思考の人でもあると説明している。
ここがただのポーズとの違いだ。
「考える人」は、余裕のある人ではない。悩みながら、見つめながら、それでも考える人だ。だから強い。きれいな会議室で出てくる考えより、少し苦しい場所で出てくる考えの方が、妙に本音に近いことがある。
トイレで考えが飛ぶのも、少し似ている。人に見せる用の思考ではない。自分の中から出てくる、かなり素の思考だ。だから変なことも出るが、意外と大事なことも出る。
「考える人=トイレ説」はどう楽しむべきか
由来として信じるのは危ない
「考える人」はトイレ中の姿から作られた。
この話をそのまま信じるのは危ない。公式情報を見る限り、由来としてはかなり弱い。ブログで書くなら、「実はそうだった」と断言するのではなく、「そう見えるが、本来の由来は違う」と書くべきだ。
この違いは大きい。
「本当だった」と書けば、ただの誤情報になる。
「そう見えるのが面白い」と書けば、読まれる雑学になる。
雑学記事は、この線引きが大事だ。面白さだけで突っ走ると、記事ではなくデマの運び屋になる。インターネットにはもう十分すぎるほどいる。これ以上増やす必要はない。
ネタとしてはかなり強い
ただし、ネタとしては強い。
「考える人」は、地獄を見つめるダンテの像だった。
でも、現代人にはトイレで考え込む人にも見える。
しかも実際に、排便姿勢としても「考える人のポーズ」は語られている。
このズレが面白い。
高尚な芸術と、日常のトイレがつながる。普通なら並ばないものが並ぶ。だから記憶に残る。
私は、この話は「真実」としてではなく、「人間の見方の面白さ」として使うのが一番よいと思う。ロダンは地獄を見ていた。私たちは便座を見ている。時代が違うと、見える地獄も変わる。まあ現代のトイレ詰まりも、かなり地獄ではある。
まとめ
「考える人」の像は、実はトイレをしている姿から作られた。本当かな。
この疑問への答えは、本当とは言えないだ。
ロダン美術館やメトロポリタン美術館などの解説では、「考える人」は「地獄の門」の一部として作られ、もともとは「詩人」と呼ばれ、ダンテや『神曲』と関係する作品だと説明されている。トイレ由来という公式な説明は確認できない。
ただし、「考える人」とトイレの関係がまったくないわけではない。排便姿勢として「考える人のポーズ」が役立つという話は、医療系の解説でも出てくる。だから、トイレ説は「作品の由来」としては弱いが、「姿勢の連想」としてはかなり強い。
そして、トイレ中に思考がいろいろ飛ぶ感覚も、かなり自然だ。シャワーや散歩のように、ほどよく注意を使う活動では、心がさまよい、創造的な考えが出やすい場合がある。トイレも、スマホさえ見なければ、短い思考の個室になりうる。
つまり、こうまとめられる。
「考える人」はトイレ中の人ではない。けれど、トイレ中の私たちは、少しだけ『考える人』に近い。
名作を便座に座らせる必要はない。だが、トイレでふと浮かぶ考えを、ただの変な思いつきとして捨てるのももったいない。人間の思考は、きれいな机の上だけで生まれるわけではない。むしろ、生活の変なすき間で急に出てくる。
だから次にトイレで考えが飛んだら、少しだけ覚えておくといい。くだらないようで、意外と記事のネタになる。実際、この記事もほぼそこから生まれているのだから。

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