「最近の映画やゲームはポリコレばかりでつまらない」「日本のアニメまで海外の価値観に壊される」
SNSでは、このような意見をよく見かけます。
たしかに、作品の内容よりも人種や性別の比率を優先しているように見える例はあります。昔の作品を現在の価値観だけで批判したり、少しでも問題のある発言をした人を集団で攻撃したりする動きもあります。
では、ポリコレは本当に日本文化を壊す害悪なのでしょうか?
私の結論を先に言えば、ポリコレそのものが害悪なのではありません。差別を減らし、多くの人が参加できる社会を作る考え方には意味があります。
ただし、それが絶対的な正義になり、表現や議論を封じ始めた瞬間、ポリコレは危険な思想へ変わります。
問題なのは配慮ではありません。配慮を理由に、異なる意見や文化まで排除することなのです。
ポリコレとは何か
ポリティカル・コレクトネスの意味
ポリコレとは「ポリティカル・コレクトネス」の略です。英語ではPolitical Correctnessと書きます。
簡単に説明すると、人種、性別、障害、宗教、性的指向などを理由に、特定の人を傷つけたり不利にしたりしないよう、言葉や制度、表現に配慮する考え方です。
たとえば、差別的な呼び方を使わない、性別だけで仕事を決めつけない、障害のある人も利用できる設備を作るといった対応が含まれます。
この基本部分だけを見れば、極端な思想ではありません。
世界人権宣言は、すべての人が尊厳と権利において平等であり、差別を受けないことを基本原則にしています。日本国憲法第14条にも、法の下の平等が定められています。ポリコレの土台には、こうした人権や平等の考え方があります。
つまり、本来のポリコレは「気に入らない作品を消す運動」ではありません。少数の立場にいる人も、社会から一方的に排除されないようにする考え方なのです。
ポリコレという言葉は批判にも使われる
現在の「ポリコレ」という言葉は、中立的な意味だけでは使われていません。
実際には、過剰な言葉狩り、表現規制、無理な多様性の押しつけなどを批判するときに使われることが増えています。
そのため、「ポリコレに反対」と言っている人でも、差別をしたいわけではない場合があります。
その人が反対しているのは、差別への配慮ではなく、配慮を理由にした強制や検閲かもしれません。
ここを区別しなければ、議論は永遠にかみ合いません。人間は同じ言葉に別の意味を入れたまま争うので、実に効率が悪いのです。
ポリコレが必要とされる理由
昔の表現が誰にとっても楽しかったとは限らない
昔の映画、漫画、テレビ番組には、現在では放送が難しい表現があります。
それを見て「昔は自由だった」と感じる人もいるでしょう。しかし、その自由によって傷つけられていた人がいた可能性も忘れてはいけません。
特定の人種を笑いものにする、女性を能力の低い存在として描く、障害を笑いの道具にする。このような表現は、当時は普通でも、対象となった人には苦痛だったはずです。
「昔は誰も文句を言わなかった」という主張も注意が必要です。
文句がなかったのではなく、声を上げにくかっただけかもしれません。声を上げれば、さらに笑われたり、仕事を失ったりする時代なら、黙る人が多いのは当然です。
ポリコレによって、これまで表に出にくかった意見が見えるようになった点は、明らかな前進だと私は思います。
多様な登場人物は作品の幅を広げる
映画やゲームに、さまざまな人種、性別、身体的特徴を持つ人物が登場すること自体は悪くありません。
むしろ、これまで描かれなかった立場の人物を主人公にすることで、新しい物語が生まれる可能性があります。
問題は「多様な人物が出ること」ではなく、「多様性を入れたという事実だけで作品を評価すること」です。
登場人物に魅力がなく、物語も面白くないのに、社会的に正しい作品だから批判してはいけないとなれば、それは芸術ではありません。道徳の教材です。
多様性は作品を豊かにする材料にはなります。しかし、多様性だけで作品が面白くなるわけではないのです。
ポリコレが害悪だと言われる理由
作品より属性が優先されることがある
ポリコレへの反発が強まった大きな理由は、物語よりも登場人物の属性を優先しているように見える作品が増えたことです。
人種、性別、性的指向などを作品に入れること自体に問題はありません。
しかし、歴史上の背景や原作の設定を無視して変更すれば、ファンが反発するのは当然です。
その反発をすべて「差別」と決めつけるのも乱暴です。
原作を尊重してほしいという意見と、特定の人種や性別を排除したいという意見は同じではありません。
ここを一緒にすると、本当の差別まで見えにくくなります。
少しの失敗も許されない空気が生まれる
過剰なポリコレには、人の発言を常に監視するような面があります。
昔の発言を掘り出し、現在の基準で批判する。言葉を一つ間違えただけで、その人の人格全体を否定する。謝罪しても許さず、仕事を失うまで攻撃する。
このような動きは「キャンセルカルチャー」と呼ばれることもあります。
もちろん、重大な差別発言や嫌がらせには責任が必要です。しかし、知識不足による失言と、悪意を持った差別を同じように扱うべきではありません。
失敗した人に学ぶ機会を与えない社会では、誰も本音を話さなくなります。
表面上は差別的な言葉が消えても、人の考えまで変わるとは限りません。むしろ、反発が地下にたまり、より強い対立を生む危険があります。
正しさが議論を止める武器になる
ポリコレの最も危険な部分は、自分を「正しい側」に置き、相手の発言を聞かなくなることです。
「その意見は差別的だ」と決めつければ、内容を検討せずに議論を終わらせられます。
しかし、差別に反対する側も間違えることはあります。少数者の中にも意見の違いがあります。女性、外国人、LGBTなどの大きな言葉で人をまとめても、全員が同じ考えを持っているわけではありません。
特定の集団を守ると言いながら、その集団に属する人の多様な意見を無視するなら矛盾しています。
多様性を守るために、意見の多様性を消してはいけません。
ポリコレは日本文化を壊すのか
現時点で「日本文化が壊された」とは言い切れない
「ポリコレによって日本文化が壊される」という意見は、少し大げさです。
日本の漫画、アニメ、ゲーム、伝統芸能、食文化が、ポリコレによって消滅した事実はありません。
むしろ、日本の作品は世界に広がり、海外の人にも強い影響を与えています。
また、日本の文化行政も、多様性と伝統を対立するものとして扱っていません。
文化芸術基本法は、文化芸術が多様性を受け入れる社会を作る一方で、それぞれの国や時代のよりどころとなり、文化的な伝統を尊重する心を育てるものだとしています。
つまり、多様性を受け入れることと、日本文化を守ることは両立できます。
「外国人を描いたら日本文化ではない」「女性を主人公にしたら伝統が壊れる」という話ではありません。日本文化は、昔から外の文化を取り入れながら変化してきました。
変化した文化は偽物だというなら、現在の日本文化の多くが偽物になってしまいます。
海外基準の一方的な押しつけには注意が必要
ただし、日本文化への影響を心配する声が、すべて間違いとは言えません。
海外市場で作品を販売するため、制作会社が外国の基準を強く意識することはあります。
その結果、日本の歴史や宗教、生活習慣を十分に理解しないまま、海外の価値観で修正を求められる可能性はあります。
これは注意すべき問題です。
たとえば、日本では普通の表現でも、別の国では差別的、性的、宗教的に不適切と判断される場合があります。
しかし、海外で不快に感じる人がいるからといって、日本国内の作品まで同じ基準で修正する必要があるとは限りません。
文化には、それぞれの地域の歴史と背景があります。
ユネスコの「文化的表現の多様性の保護及び促進に関する条約」も、世界中の文化を一つの基準に統一するのではなく、多様な文化的表現を保護し、発展させる考え方を示しています。
多様性とは、すべてを同じ形にすることではありません。違う文化が違うまま存在できることです。
日本文化は守るだけでは弱くなる
私は、日本文化を守るという言葉にも注意が必要だと思っています。
文化は博物館の展示物ではありません。人が使い、楽しみ、作り変えることで生き続けます。
昔の形を一切変えずに保存するだけでは、若い世代から離れ、結果として消えていく可能性があります。
大切なのは、海外の要求に何でも従うことでも、外からの批判をすべて拒否することでもありません。
残すべき部分は残し、問題がある部分は見直す。この判断を日本の作り手と受け手が自分たちで行うべきです。
海外の活動家にも、国内の自称文化保守にも、判断を丸投げしてはいけません。
ポリコレと表現の自由は両立できるのか
表現の自由は批判されない権利ではない
日本国憲法第21条は、表現の自由を保障しています。
ただし、表現の自由は「何を言っても誰からも批判されない権利」ではありません。
作品を公開する自由がある一方で、その作品を批判する自由もあります。
差別的だと批判することも自由ですし、ポリコレが行き過ぎていると批判することも自由です。
問題は、批判を超えて、脅迫、嫌がらせ、不当な圧力によって相手を黙らせることです。
国が表現を禁止する場合と、企業が商売上の判断で内容を変更する場合も分けて考えなければなりません。
すべてを「検閲」という言葉でまとめると、問題の中身が見えなくなります。
作り手には表現する自由がある
作品を作る側には、多様性を重視した作品を作る自由があります。
同時に、流行している価値観に合わせず、昔ながらの物語を作る自由もあるべきです。
多様性をテーマにした作品だけが正しく、そうでない作品は遅れているという考え方は危険です。
文化庁が示す文化芸術の基本理念でも、文化芸術を行う人の創造性を尊重し、多様な文化芸術を保護・発展させることが重視されています。
本当の多様性を守るなら、作品の内容だけでなく、作り手の考え方も一つに統一してはいけません。
ポリコレが害悪になる境界線
他人への配慮なら必要
差別的な呼び方を避ける、利用しにくい制度を改善する、これまで機会を得られなかった人にも参加の場を作る。
このような配慮は、社会を少し暮らしやすくします。
これを「ポリコレだから嫌だ」と拒否するのは、単なる反発になりかねません。
言葉や制度は時代に合わせて変わります。昔から使っていたという理由だけで、問題のある表現を守り続ける必要はありません。
思想の強制になれば害悪
一方で、次のような状態になれば、ポリコレは害悪に近づきます。
異なる意見を差別と決めつける。作品の質より属性の数を重視する。歴史や文化の背景を無視する。失言した人に学ぶ機会を与えない。正しい用語を使うことだけで満足する。
これでは、人を尊重するための考え方が、人を支配するための道具になります。
正義は必要です。しかし、自分の正義を疑えなくなった人ほど危険な存在はいません。
判断基準は強制と選択の有無
ポリコレが適切かどうかを考えるとき、私は「本人が選べるか」を重視します。
新しい表現を提案することと、古い表現を禁止することは違います。
多様な登場人物を増やすことと、決められた比率を作品に強制することも違います。
不快だと意見を述べることと、作品を販売できないよう圧力をかけることも違います。
選択肢を増やすポリコレは、多様性につながります。
選択肢を減らすポリコレは、統制につながります。
この線引きを忘れてはいけません。
まとめ
ポリコレとは、人種、性別、障害、宗教などを理由に、特定の人が不当に傷つけられたり排除されたりしないよう配慮する考え方です。
本来の目的は、人の尊厳と平等を守ることにあります。その意味では、ポリコレをすべて害悪と呼ぶのは間違いです。
一方で、ポリコレが絶対的な正義として使われ、異なる意見や作品を排除し始めれば、表現の自由や文化の多様性を傷つけます。
日本文化がポリコレによって完全に壊されているという証拠はありません。しかし、海外の価値観を唯一の正解として、日本独自の歴史や表現まで一方的に変えようとする動きには警戒が必要です。
守るべきなのは、差別ではありません。
同時に、配慮の名を借りた表現統制も守る必要はありません。
人を尊重しながら、作品を自由に作り、自由に批判し、異なる考えを議論できる社会を目指すべきです。
ポリコレか反ポリコレかという単純な二択では足りません。
配慮は必要、強制は不要。この現実的な線引きこそ、日本文化と表現の自由を守る答えです。

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