こんにちはTac^^です。
稀勢の里引退か⁉
原因は6場所休場!
横綱が6場所もいないのは問題だろう。
稀勢の里引退⁉原因は6場所休場!
大相撲の横綱 稀勢の里が左胸のけがの影響で今月11日から始まる春場所を休場することになりました。
稀勢の里の休場は6場所連続で横綱の6場所連続の休場は14年6か月ぶりです。
稀勢の里は去年3月の春場所で2場所連続の優勝を果たしましたが左の胸や腕を痛め、その後も相次ぐけがのため、5月の夏場所以降途中休場を含め、ことし1月の初場所まで5場所連続で休場していました。
稀勢の里は、初場所を6日目から休場したあと調整を進めてきましたが、今月11日に始まる春場所まで1週間を切った今週初めの一門の連合稽古でも、相撲を取らず調整が遅れていました。
師匠の田子ノ浦親方によりますと、稀勢の里は左胸のけがが完治していないということで、春場所を休場することを明らかにしました。
田子ノ浦親方は「本人も出たい思いはあるがきちんとした状態で出場したいと言っている。相撲を長くとるためにも休場して治療を優先し、次につなげたい」と話していました。
横綱が6場所連続で休場するのは、平成14年九州場所から平成15年秋場所にかけての横綱 武蔵丸以来で14年6か月ぶり。
武蔵丸は引退?
武蔵丸の横綱昇進により、平成時代に入ってからは2例目の4横綱と成った(曙・貴乃花・若乃花・武蔵丸)。
その昇進伝達式では「横綱の名を汚さぬよう心・技・体に精進します」と予定していたところ言い間違えて「横綱の名を汚さぬよう・・・。ショウジン・タイにいたします」という不思議な口上を述べてしまうというハプニングが起こった。
横綱昇進披露では、初土俵を踏む前にハワイのタロイモで作った酒を出席者に振舞った。
横綱土俵入りは、師匠の武蔵川親方同様に雲龍型を選択、土俵入りの指導も武蔵川親方が行った。
しかし武蔵丸の横綱土俵入りは、せり上がりがかなり不安定で四股の足があまり高く上がらない事もあり、200kgを超える力士としては今一つ重量感に欠け、決して上手いとは言い切れなかった。
新横綱の1999年7月場所は優勝を逃すも、千秋楽に曙を破って弟弟子の関脇(当時)・出島の援護射撃を果たすなどの活躍で12勝3敗の成績をおさめ、次の9月場所も12勝3敗で横綱として初の幕内優勝を成し遂げた。
そして翌11月場所も千秋楽の11勝3敗同士の相星決戦で貴乃花を掬い投げで下して12勝3敗で連覇を果たす。
また横綱に昇進した1999年は、武蔵丸にとって初めての年間最多勝を受賞。
但し、当時は他の横綱が不調または休場していた時期であり、しかも全て12・13勝での低レベルな幕内優勝であった。
2000年(平成12年)1月場所には左尺骨手根伸筋附着部炎のため、4日目から初土俵以来初めての途中休場となる。
先場所まで継続中だった連続勝ち越し記録がストップとなった。
この頃から故障が目立つようになり、以降左手首の故障に悩まされることになる。
次の3月場所に復帰するも11勝4敗、又同場所中に若乃花が引退の為、4横綱時代は僅か5場所で終わった。
さらに同年5月場所は、場所直前の稽古中に左膝を捻挫したため、初めて初日から全休となった。
同年9月場所、14日目で武蔵丸一人14戦全勝で5場所ぶり8回目の優勝が決まったが、千秋楽は横綱曙に敗れて1994年7月場所以来の15戦全勝はならなかった。
結局2000年の優勝はこの一度だけに終わった。
2001年(平成13年)は1月場所と5月場所、貴乃花との優勝決定戦に進出するも、2回共に敗れて優勝を逃している。
特に同年5月場所、14日目の武双山との一番で巻き落としで敗れた際、右膝半月板損傷の大怪我を負っていた横綱貴乃花(その後7場所連続休場、貴乃花の優勝もこれが最後だった)に対し、千秋楽の本割り結びの一番は突き落としであっさり下すも、優勝決定戦でも気を遣ったのかまさかの上手投げに横転し優勝を逃した。
のちに武蔵丸は「貴乃花のケガが気になってしまいやりにくかった」とコメントしている。
その後、後援者からは「丸ちゃんは同情してわざと負けてやったんだろ?」などと言われ、本人はこれについて後年「本当にショックでショックで、もう相撲を辞めたいと思ったくらいだった」と振り返っている 。
その後7月場所からは、貴乃花の長期休場により実質上7場所の間一人横綱の時代が続いた。
不甲斐ない敗戦を引きずっていた武蔵丸は、例の敗戦から半年ほどは「稽古をしていても心と体がバラバラで、本場所にも行きたくない。負けてもどうでもいい」と投げやりになっていた。
7月場所の最中にはストレスから吐血。
しかしそれでも「このままでは自分がダメになる」と貴乃花との再戦を望み、心を入れ替えて稽古に励んだ。
同年9月場所は5つも金星を献上(歴代の横綱で1場所5個もの金星配給は歴代ワースト記録)してしまい9勝6敗と不調だったが、翌11月場所は13勝2敗で7場所ぶり9回目の優勝となった。
またこの2001年、2年ぶり2度目の年間最多勝を受賞。
仮に武蔵丸が11月場所も優勝を逃した場合、優勝が一度も無いままの年間最多勝という大相撲史上初の珍記録となっていた(この「優勝ゼロで年間最多勝」は15年後の2016年、大関(当時、のち横綱)・稀勢の里が達成している)。
2002年(平成14年)1月場所は、左手首の故障再発で途中休場するものの、同年3月場所・5月場所と2連覇を達成。
7月場所は首痛の影響で終盤崩れて10勝5敗に終わるも、翌9月場所の千秋楽横綱相星決戦では、長期休場明けの貴乃花を倒して、13勝2敗で12回目の幕内優勝を果たした。
その優勝のインタビューで武蔵丸は「貴乃花に敗れたままだったので、これまでは優勝しても心が痛かった。(貴乃花が)帰ってくるまでずっと待っていた。今までの優勝の中で一番嬉しい。」と笑顔でコメント。
貴乃花は引退後の対談で「もう一度マルちゃんと結びの一番を取ったら、そこで引退しよう」と決めていたことを明かしている。
しかし皮肉にもこの一番が、貴乃花と武蔵丸にとって現役最後の対戦となり、又二人共に15日間皆勤した最後の場所となってしまった。
同年11月場所中、武蔵丸は持病の左手首の故障が悪化、靱帯剥離骨折により6日目から途中休場した(前日の取組では貴ノ浪と対戦し下手投げで敗れていた)。
場所後に手術を決行したものの左手首は結局全快する事はなく、現役最終盤の頃にはほぼ全ての腱が切れており、左手の握力が20kgを切るほど重症化していた。
2003年(平成15年)1月場所から5月場所まで、左手首手術後のリハビリ専念の為3場所連続全休。
その間同年1月場所9日目に平成の大横綱・貴乃花が引退、同場所後に朝青龍が第68代横綱に昇進。同年7月場所へ4場所振りに出場したが、又しても左手首痛の影響からか2勝3敗と不振、6日目から途中休場(朝青龍も9日目で5勝4敗と不調で10日目より途中休場、横綱不在となった)。
翌9月場所も怪我の治療により全休。
そして次の11月場所で進退を掛けるも6日目で3勝3敗と波に乗れず、結果的に現役最後の相撲となった2003年11月場所・7日目の土佐ノ海戦では、引っ掛けにあっけなく自ら土俵を割ってしまい、思わず天を仰いだ。
その日の夜、武蔵川部屋で武蔵丸自ら現役引退を伝えると、部屋の弟弟子である武双山、雅山、武雄山らは揃って号泣し、また当時平幕に落ちていた好敵手の貴ノ浪も、翌8日目の支度部屋で大粒の涙を流した。
なお、この引退によりこれ以降前述の稀勢の里が第72代横綱に昇進するまで、番付から日本国籍を持つ横綱が姿を消すことになった。
現役引退の記者会見では、かつて高校時代にアメフトの試合で首を痛めており入門当初から左肩には殆ど力が入らなかったということを明らかにした。
武蔵川親方にすら引退会見のその時まで語ったことのなかった痛みを抱えながら、14年間で通算連続勝ち越し55場所(歴代1位)、外国出身力士最多の幕内706勝(引退当時、2014年1月場所2日目に白鵬が更新)外国出身力士最多優勝回数12回(引退当時。現在は白鵬が保持)などを記録した。
2004年(平成16年)10月2日に引退相撲が行われ、露払い雅山、太刀持ち武双山を従えて最後の土俵入りを披露した。
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