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金沢旅行にいってきたので一緒にお宮参りしてまいりました。
金沢周辺神社
神社を巡りつつ、金沢城、兼六園を回ってきました。
御朱印は全て初穂料は300円
尾崎神社
この尾崎神社は寛永20年(1634年)に4代藩主前田光高が金沢城北の丸に天照大神、東照宮(徳川家康)、3代藩主前田利常を祀る東照三所大権現社として建立されました。
その後明治7年(1874年)に神仏分離令により尾崎神社と改称され、明治11年(1878年)に金沢城内に陸軍省が駐屯することになり、現在地に移築されました。
尾山神社
慶長4年(1599)閏3月3日、利家公が薨去します。
その後、二代利長公は、利家公を仰ぎ神として祀ろうとしました。
しかし、当時、前田家は、なんといっても外様大名の立場です。
徳川幕府の許可なくして、勝手なことはできません。利長公とて、徳川幕府をはばかり、公然と神社創建に踏み切ることができませんでした。
そこで利長公は、守護神としていた物部八幡宮ならびに榊葉神明宮を遷座する名目で、卯辰山麓に社殿を建立し、利家公の神霊を合祀しました。これが、卯辰八幡宮です。
むろん藩あげて、厚く祭儀を執り行い、尊崇しました。
ちなみに、物部八幡宮は、もと東海老坂村の鎮座です。
利長公が、越中国の守山城におられたとき、守護神としていました。
榊葉神明宮は、もと越中国阿尾の鎮座です。
石浦神社
古墳(五四七)時代に草創され、金沢最古の宮として、 三輪神社を号し、奈良時代には神仏習合となり石浦山慈光院長谷寺と改め、 江戸時代には石浦山王、石浦大権現、明治の神仏分離令により 石浦郷の地名をとり石浦神社と改称した。
廣坂稲荷
伏見稲荷から御分霊をいただき、その御神徳に浴したいという人々の願いから、北陸で一番古く商売繁盛の神様として祀られたと言うお話があります。
石川護国神社
金澤神社
加賀藩11代藩主前田治脩(はるなが)が寛政6年(1794)に、兼六園の現在の梅林の地に藩校明倫堂を建てられ、その鎮守社として金城霊澤のほとりに、学問の神であり前田家の先祖でもある菅原道真公の御舎利を奉斉する神社を御創建になった。
造営にあたってはときの重臣である奥村河内守・前田大炊・本多玄藩助・大音主馬などが、御造営奉行佐藤勘兵衛、御作事奉行井上勘右ェ門・松田与助などが作業にあたった。
その後、兼六園が整備されるにあたり、藩校は他の地に移転したが、神社は12代藩主前田斉広のときに建てられた竹沢御殿の鎮守として災難除けの神・商売繁盛の神・交通安全をあわせまつり朝夕兼六園を散策された藩公が領内の平和と繁栄を祈願された。
災難除けの神である白蛇竜神の御神体の1体は神社に1体は江戸屋敷にて奥方に代々奉斉されていたが、昭和21年神社に移された。毎年10月1日に白蛇竜神のお姿をうつした神札を百体のみ奉製し、藩公から藩士や城下の有力町民にあたえられたといい、市内の旧家に現存するものが多い。
商売繁盛の神である白阿紫稲荷大明神は明治維新の後、前田家が東京に移住する時その邸内に移されたが、旧藩士の懇願により再び神社に移された。
神社への参拝は明治以前は春秋の例祭のみ、城下の婦子だけが参拝を許され藩公から紋菓をいただいたという。
一般の人々が自由に神社を参拝できるようになったのは明治7年5月7日、兼六園が一般公開されてからである。
現在では、年間を通じ学業成就・商売繁盛・災難除けなどのさまざまな祈願のため参拝する人が多い。
- 菅原 道真公(学問の神・前田家の先祖)
- 白蛇竜神(金運・災難除の神)
- 白阿紫稲荷大明神(商売繁盛の神)
- 琴平 大神(交通安全)
- 前田 斉広(なりなが)公(12代藩主)
- 前田 斉泰(なりやす)公(13代藩主)
この後
兼六園→金沢城巡りしました。
金沢名物も堪能してきました〜
お寿司
香箱がに
下のプチプチ最高
ノドグロ最高にうまかった
金沢おでん
あんころ餅
ゴーゴーカレー 兼六ver
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