こんにちはTac^^です。
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大好きな漫画ドリフターズに出てくる人物を中心に、
その登場人物の背景を学んでいければなと思います。
今回はこの作品の弓の名手といってもいい「那須与一」について!
那須与一(なすのよいち)とは?
歴史上の記録
名前の由来
与一は十あまる一。
つまり十一男を示す通称である。
なお、与一を称した同時代人としては佐奈田義忠、浅利義遠がいる。
彼らと那須与一を合わせて「源氏の三与一」と呼ばれる。
略歴
那須 与一(なす の よいち)
嘉応元年(1169年)? – 文治5年8月8日(1189年9月19日)?
平安時代末期の武将。
系図上は那須氏2代当主と伝えられる。
父は那須資隆(太郎)。
妻は新田義重の娘。
一般的には本名は宗隆(『平家物語』では宗高)と紹介されることも多い。
ただ、これは初名であり、当主に就任後は父と同名の資隆(すけたか)と名乗ったと伝えられる。
『吾妻鏡』など、同時代の史料には那須与一の名は見えないため、
与一の事跡は軍記物である『平家物語』や『源平盛衰記』に伝えるところが大きい。
(そのため、学問的には与一の実在すら立証はできていない)
『平家物語』の記述から逆算すると、1169年(あるいは1166年、1168年)頃に誕生。
誕生地は当時の那須氏の居城神田城(現在の栃木県那須郡那珂川町)と推測されることが多い。
『平家物語絵巻』巻十一より屋島の戦い「扇の的」
治承・寿永の乱において、源頼朝方に加わり、源義経に従軍。元暦2年(1185年)の屋島の戦いでは、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とすなど功績を挙げる。源頼朝より丹波・信濃など5カ国に荘園を賜った。(丹後国五賀荘・若狭国東宮荘・武蔵国太田荘・信濃国角豆荘・備中国後月郡荏原荘)。また、十郎為隆を除く9人の兄達が、皆平氏に味方し、為隆ものちに罪を得たため、与一が十一男ながら那須氏の家督を継ぐ事となった。与一は信濃など各地に逃亡していた兄達を赦免し、領土を分け与え、下野国における那須氏発展の基礎を築いたとされる。しかし、某年、山城国伏見において死去。法名は即成院殿禅海宗悟大居士(又は即成院殿月山洞明大居士)。なお、『寛政重修諸家譜』では文治5年(1189年)8月8日死去。『続群書類従』では建久元年(1190年)10月死去とある。(この辺りからも読み取れるが立証がされていない。)家督は兄の五郎資之(之隆)が継承した。まもなく鎌倉幕府の有力御家人宇都宮朝綱の実子(異説もある)である頼資が資之の養子となり家督を継いだ。その頼資の子が、建久4年(1193年)に源頼朝の那須巻狩の際に饗応役(きょうおうやく)を務めた(『吾妻鏡』による)光資である。
作中での那須与一
作中でも弓の腕前は凄腕。
エルフと一緒に、弓を操るところは楽しみなシーンですね。
源義経の軍に従軍していたとあって、作中では義経との因縁が描かれている。
実際に確執のようなものがあったかはわからないが、
義経がヘンズ側かドリフターズ側になるのか気になるとこですね。
調べていてわかったのですが、与一というのはニックネームに近いものだったというのにびっくりしました。
源平の話で弓の名手として、必ず話題になる歴史上の人物だけに今後の漫画での活躍にも期待ですね!
19歳頃に亡くなったというのは作中にも表現されていますね。
ドリフターズは死にかけが飛ばされるという設定のようですね。
明智も死にかけで出てきますし。
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